遺書手紙日記

覚書、或いはTLを汚さないための長文

生きていくにはお金がかかる

4月13日 雹のち快晴

午前中は雹が降るような天気も一時はあったが、3時40分現在は真っ青な空が広がっている。窓から見える限りでは雲ひとつ見当たらない。まぁ反対側にあるのかもしれないけど。

 

昨日は本を返してからランニングにでも行くはずが、積んでいた読書感想文を長々と書いてしまって結局返却して帰ってきた頃には7時半くらいになってしまっていた。途中でお菓子やらを買い込みにコメリに寄っちゃったせいもあるけれどね。

在庫整理なのか安売りしてて、普段利用するスーパーより全然安く買えてしまった。お菓子だよ、お菓子。コメリなのにお菓子だよ。都こんぶとかブラックサンダーバーとかその他幾つか買い込んでこれ500円越えるかなと思ったら490円で済んでやんの。びびったね。やっぱり税込み表示って楽でいいわ。

500円程度でビクビクするみみっちさが悲しい。でもしょうがないじゃない500円って言ったら時給の6割強くらいなんだもの……。

 

さて、明日は待ちに待った休日なのでゆっくりしたいが、祖母の病院の送り迎えの用事があるのでそうそう朝から晩までゆっくりとはいかない。というか今のメンタルで朝から晩までゆっくりしてたら多分罪悪感で心が休まらないと思う。気分転換が大事だよね。心の換気ってやつさ。

お、はてブだった。これこれ、これぼくもツイッターで見た。

shinya-sheep.hatenablog.com

いい表現だなーと思った。

まぁ一度ドロップアウトしちゃったので、今後どうするかものすっげえ悩んでて精神キツいんですがね……。お金がないと美味しいものも好きな映画も見れないこんな世の中じゃ……。

 

そういえば映画で思い出したけど、いつも思うけどあれってすげー贅沢な趣味だよね。

ほんの1時間半か2時間ぽっちに2000円も使うんだぜ。すげーよ。2000円あったら文庫本3冊くらい余裕で買えちゃうのに、それを蹴って2時間だぜ。しかもわざわざ上映場所まで足を運んで、パンフレットやらお菓子やら飲み物買ったらもっと足が出るんだぜ。それでも2時間だぜ。

いや悪いこととは言ってない。むしろ逆。羨ましい。そんな風に体験そのもの、空間そのものに対してお金を払える余裕が羨ましい。ぼくだって映画館の1回や2回くらいは行ったことがある。開始のブザーも会場の暗転も映像が始まるときの社名のクレジットもすげーわくわくする。分かる。だからあれを、値段を気にせず何度も体験・経験できる人たちがすっごい羨ましい。

ぼくの場合は大抵友人に誘われていく形で、その友人が障害者手帳を持っているので通常1800円くらいのところを1000円で見れるのだが、それでも出費としては結構痛いもん。来てよかったなぁと思いつつも、レシートを見てちょっと凹むもん。

ちなみに最近映画館に行ったのは「ズートピア」を見に行ったときかな。面白かった。パンフレットも買った。……あれ、パンフレットどこやったっけな。忘れたけど。

最近だと「シン・ゴジラ」が見たかったなぁ。見たかったねえ。見たい見たいとは思いつつも結局行けなかった……。今見たら「君の名は。」は最寄りの映画館で見れるけど「シン・ゴジラ」はもうやってるとこないっぽい。うぐう。

気軽に映画見に行ける収入もほしいなぁ。ああ。

 

出費の話は他にもある。

まず寝具でしょ。今の布団と枕はもう何年も使ってるけど、あんまり体に合ってない気がするんだよね。まず体が頭から足まで入りきってないしね(身長188cmあるせい))。あと枕もなんかこう……寝にくいんだよね。だから、よくいわれるじゃん、人間は人生の1/3を布団の中で過ごすからきちんとしたものを買いましょうって。だから買いたいんだけどさー。選び方とか分かんないし、高いものを買うほどお金ないし、高いもの買ったとしてももし合わなかったらどうしようってなってさ。専門家に聞けばいいのかなとも思うけど、お店の人に聞いたら、お店の人だって商売だから買わせなきゃいけないわけじゃん。本当にぼくの体に合ったものを選んでくれるのかなぁという心配は常に付きまとう。

次に礼服でしょー。そういえばスーツと礼服って別物なのかな。多分別物だろうけど。今年祖父の13回忌をやるらしいので、その時までに礼服を用意しておかなきゃいけないなと思っているんですよ。ずっと使う用事なかったから持ってなかったけど、いい機会かなって思って。でもあれも何万円くらいするんだろうね。ちょっと調べてみたけど……うーん難しいな……ダークスーツとかブラックスーツとか……。でもやっぱ3万円は見なきゃいけないみたいだなぁ。ううん。ちょっとこれも痛いなー。

更にはパソコンでしょー。昨日も箇条書きに混ぜたけどこれが今一番ネックかもしれない。今のPCは5万円くらいで組んだけど、今よりしっかりしたものとなるとやっぱりお予算10万円くらいは見なきゃいけないと思うんだ。ディスプレイ込みで。となるとぐえー結構きついー。

あとあれあれ、ランニングシューズね。上記3つと比べると値段はかなり落ちるんだけどさ。今ランニングに使ってる靴は靴箱にあった有り合わせのやつで、実は足に全然合ってないのよね。そんで、誤魔化し誤魔化し使ってはいるんだけども、ちょっと最近その靴を履くと左足の親指の付け根辺りが凄く痛い。右はなんともないのに左だけ痛い。少し前からここの部分が打ち身になったみたいに痛いなーと思ってたんだけど、最近気付いたんだ、ランニングした翌日痛むんだってことに。折角習慣づいてきたのにこれはちょっと困ったなあってことで、新しいのを買いたいんだけど…これまた見繕うと1万円下らないのよね。きっついわー。

 

一応貯金そのものは上に挙げたすべてを賄ってもまだ余るくらいにはあるとはいえ、貯金を吐いてしまうのもそれはそれでかなり精神的に怖いものがある。

ほんとどうすっぺかなー。

 

 

まとめ

・寝具にお金をかけたい

・礼服を買わなきゃいけない

・パソコンを新調したい

・ランニングシューズ買いたい

 

結論:生きていくにはお金がかかる

 

 

5時30分

2478文字

訂正記事→4月10日の一部

表題の通り訂正記事。

別に律儀に訂正しなくたって誰も困らないとは思うけど、一応やっとこうかなと思って。

 

時代に迎合できない者は命を捨てるか世を捨てるしかない - 遺書手紙日記

 4月10日の文章でこのように記述した。

 (FGOというかFateは独自解釈も多いので、信勝の謀反や挙兵に関しては『姉(信長)に天下人の器があるおことを証明するための手法』であるということになっているらしい。

 

この記事を書いた時点ではイベントが最後のエピソードまで解放されておらず、その段階での情報だけで、つまり思い込みと自己解釈だけでこのように記述したが、実際は以下の通りであることが、その後のゲームテキストで判明した。

 

 信勝が信長を攻めたのは(信長の能力に対する)嫉妬のためである。

 

信勝自身が明言したので間違いない。

というわけでここに訂正記事を記すものである。

 

ついでに付け足すと、あのイベント時空に関して言えば信勝くんは信長に殺されなかった。「やれやれ、ワシも身内にはつくづく甘い」みたいなこと言って赦してあげた。姉大好きな信勝くんは泣きじゃくりながら抱きつく……という流れ。

家族愛は不出来な人間の唯一の心の拠り所となる、のかもしれない。

あと信勝くん可愛い。

 

まぁあの空間、結局消滅するんですけどねえ。

本を返却する話

4月12日 曇り

少し寒いけれどそこまで寒くはない日。

先日図書館から借りた本の返却日だったことに気付いたので、これを書き終えたら行ってこようと思う。

区役所が同じ方向だけど自立支援医療の書類をまだ整えてないので今日は投げ捨てておこう。いつ出すんだ。早く出さないと。

 

色々と頭の中でぐちゃぐちゃしているのだけど文字に起こそうとするとなかなかしんどい。緋色の研究のようだ。解き解し説き解し疾き解し溶き解し。

こういう時は箇条書きにしてみるのがいい。と思う。多分。

 

・本の感想文を書かなきゃいけないなー。

・こないだの記事の訂正記事も書かなきゃいけないなー。

・職場のフルタイムのパートさんに「今日も疲れたねー」って言われると返答に困るなー。ぼくあなたより20歳も若いのに5時間しか働いてない人非人なのになー。でもその人すごくいい人だから当てこすりとも思えないし、きっと気を使ってくれてることは間違いないと思う。

・睡眠の質が悪いのか眠気が頭にこびりついて離れないなー。

・頭の配線が他人と違う実感があるから多分他人からはキチガイだと思われてるんだろうなー。まともな会話が成立しない人って思われてるんだろうなー。

・昔から、頭のなかにいたずら好きの妖精さんが住んでいるんだと冗談めかして思っていたけど、仕事を始めてから冗談じゃ済まなくなった。でも医師の診断では発達障害ではないらしい。よくわからない。

・このまま日々を過ごしていたら何もできないままどんどん歳ばっかり食って正社員なんてのも夢のまた夢だなー。もう無理なのかもしれないけど。働く自信がない。でもお金は欲しい。つらい。

・知らなかった言葉を書き足して作っていく『手製の百科事典』が欲しいなー。ほしいというか造りたいなー。開いたら真新しい言葉が沢山目に飛び込んでくるような素敵な事典を造りたいなー。

・髪を切りたいなー。履歴書用の写真を撮影しないとなー。

・運転免許の更新はいつ行こうかなー。

・ランニングとかウォーキングのし過ぎで腰がいたいなー。体弱いなー。

・図書館から次はどんな本を借りてこようかなー。読みはしないんだけどね、手元に置いておくだけで。

・職場で自分が担当している部分で使用している大型機械が老朽化かどうかわからんけどエラー吐きまくりでだましだまし使ってる状態なんだけどこれさっさと入れ替わらんかなー。でもこのポンコツぶりを見てるとまるで自分自身を外部から見てるようで、苛々は収まるんだよなー。代わりに悲しみと虚無感に変わっていくんだよなー。

・礼服を用意しないといけないんだよなー。ネクタイ1本で冠婚葬祭に対応できるやつがいいなー。お金ないし。

・パソコンもそろそろ買い換えないといけないんだよなー。もう数年使ってるからそろそろ動きが悪くなってきたし。でも予算どうしようかなー。お金ないし。今使ってるやつはBTOで5万円くらい(ディスプレイ別)で組んだやつだからスペック的にはかなり低め。重いネトゲをする気はないけれど、ブラウザゲームを幾つか並行してプレイする状況はよくある。こういうときはどのパーツのどういう能力を重視すればいいんだろうね。

・あとディスプレイも今使ってる1366*768じゃ狭すぎるからこの2倍くらいの大きさのが欲しいね。お予算いくらになるんだろうなーほんと。前回のBTOは確かマウスコンピュータにお世話になったからまたそこで計算してみようかな。

 

 

なんかここまで雑な内容になったのは初めてな気がするけど、今日はとりあえずこんなところで。

どうにも頭が働かなくて困っている。

まぁこの日記の内容が雑だったところで誰も困らないしね。

1488文字

寒い 或いは高文連で入選した時の話

4月11日 雨

寒い。

止みそうもない雨がしとしと降っている。

耳をすませば小さな雨粒がものにぶつかって弾ける音がする。アスファルトの小さな水たまりが視覚から雨の強さを伝えてくる。そう酷くはない、けれど止む気配もない、雨。

どうでもいいけどしとしとって擬音を初めて考えた人はいったい何を思って雨に対して「しとしと」なんて文字を嵌めたんだろうか。知ってれば何となく分かるけど、知らなきゃ分からないよねこんなの。

もっとも、文字や単語や言葉なんていうのは、知ってれば分かるけど知らなきゃ分からないものばっかりなのだけど。

自分がとある単語をどこで初めて聞いてどこで意味を知ったかなんて、よほど特別な単語でなきゃ覚えちゃいないよ。

それともそれはぼくの記憶力が悪いだけで、人によってはこの単語はどこで知った、あの単語はどこどこで学んだ、なんて逐一記憶できていたりするのだろうか。だとしたらそれはとても羨ましいことだ。

比較的最近知った単語に「碩学」というのがある。待ってくれ、バカにしないでくれ。いやしてもいいや。事実、割と最近まで知らなかったんだから。でも言うだろ、無知が罪なのではない、知ろうとしないことが罪なのだって。やっぱぼく罪人だわ。

で、この単語、脳内ではつい「けんがく」と読んでしまうのだけど賢明な読者諸兄諸姉は当然ながらこの単語の読み方が「せきがく」であることを知っているだろう。意味は「学問が広く深い人」らしいよ。衒学や哲学みたいな何かの学問の名前ではなく、人物の形容を以て人物を表現する単語なわけだね。こういう単語をなんと言ったかな…確か専門用語があったはずなんだけど、覚えてないな。ランドセルと言って小学生を言い表すようなアレだ、つまり。

ぼくはこいつをFGOのシナリオのテキストで見たわけだが、一度意識してみると案外ほかのところでも目にする機会があると来たもんだ。もちろんFGOとは全然違うところでね。これは果たして偶然の一致だろうか、単なるシンクロニシティだろうか。そうだというのはロマンチックに過ぎるだろうし、そうじゃないというのはいささか現実を見ていない気がする。そこでぼくはこう考えた――「自分がこの単語を認識したことによって、単語を抽出する能力がついたのだ」とね。

これなら覚えたての単語をしばしば目にしてハッとすることに、偶然以外の理屈がつく。本当は実は、これまで何度も見かけていたものを、それと認識できていなかったのだということだ。テキストの森の中、文字の草叢の中に、隠れていた碩学という名前の植物を見分けられるようになった、ということだね。

……まぁそういう解釈を愉快犯的にしてみたところで、それまでその単語を見逃していた暗愚を晒してしまう結果になるというのは、なんというか、墓穴を掘る行為のような気もするけど。

ともあれ、こうして知らない単語を新しく知るというのはいつになっても楽しいものだ。むしろ最近になってようやく楽しくなったとも言えるかな。専門用語でない知らない単語、見た目から意味も読み方も想像できない単語なんて、なかなかないものね。でも世の中にはそれこそ無限に単語があるからなぁ。それらを無数のネットワークで繋いで、自由自在に引き出せるような能力があったらどんなに楽しいだろうなぁ。それが文章を書くってことなんだよね。

そういう意味では、谷川俊太郎なんか流石だよね。あの単語の並びはちょっとやそっとじゃ出てこない。と思う。押しも押されもせぬ詩の大家という感じがするよ。

 

詩歌(俳句・短歌・詩)については、ぼくも多少齧ったことがある。高校時代、ぼくの輝かしい高校時代に、文芸同好会でノルマとして課されていたからね。確か俳句なら7句、短歌なら5首、詩はいくつだったかな…一つか二つか、そのくらいだった。そして小説や評論やエッセイは自由提出。ぼくはたいてい短歌と俳句と詩から一つ二つを投稿してから、それとは別に短い推理小説を投稿していた。まぁ、拙いものだったけどね。紙面も限られていたし…というのは言い訳だけれど。

ぼくが入った当時の文芸同好会は顧問が現国の先生で、活動の時間を使って原稿用紙の使い方や、俳句の決まり、短歌の決まり、そういうものをきちんとレクチャーしてくれた。お陰で少なくともぼくは、俳句や短歌を作ることの楽しさについて目覚めたってわけだ。

今考えると色々なものが拙いなと思うけれど、それでも当時の自分の短歌や俳句や詩は、好きなものが多いよ。感性という意味では、熱意という意味では、やっぱり当時は瑞々しいものがあったなと思う。それと、ものによっては今でもきちんと思い出せるんだよね、どういう思考を経てそういう表現にしたかっていう作品の経緯みたいなものがさ。ひょっとするとこれがぼくの一番向いてたことで、もっと夢中になれていたらひょっとしたかもしれないなんて夢もないわけじゃない。夢は飽くまで夢だったけれどね。上には上が、どこにだっているものさ。

 

そういえば学歴というのを初めて意識したのは、高文連*1の、文芸コンクール、かな、のときだったね。

自分なりにがんばって書いた短い小説で『入選』って通知をもらったのは、あれは大学のAO入試格通知と同時だったけれど、前者のほうが遥かに嬉しかった。自分のやったことを認められたような気がした。

その授賞式というか、まぁ受賞者顔合わせ会みたいなのがあったんだけどさ、入選って端っこの端っこなのよね、受賞位置的にはさ。その上にいっぱい、優秀賞とか奨励賞とかいるのさ。

ぼくが当時通っていた高校はお世辞にも偏差値が高いとは言えない…というかまぁかなり低めだったね、だったんだけど、そんでその場にはさ、地元ではそれなりに名の通った、いわゆるイイトコの奴らがいっぱいいるのさ。優秀賞を取ったのは確か県下トップの偏差値の学校のやつだったかな。男子ね。そんで受賞のスピーチとか、受賞者同士で交流を深めてくださいとか言って雑談もしたんだけどさ、みんな話がうまいの。そんで積極性もあるの。ああ、こういう人たちが賢いってやつなんだな、って思っちゃったよね。急に自分が場違いみたいに思えちゃった。思えばその時から、卑屈な性格の芽を持ってたんだろうな。向こうさんがそんなことを気にしてたかどうかなんて分からないのにね、勝手に凹んでしまったんだ。

その優秀賞をもらったやつの作品は、後で読んでみたらとても上手だった。不可思議な話だったけど、なるほど優秀賞を取るだけあるなって思ったよ。でも笑っちゃったのは、そこに登場してた人物の口調が哀川潤そっくりだったってことかな。君もハマってたんだな、って勝手にシンパシーを覚えちゃったね。ぼくも推理小説の最終話に似たような人物を出してしまってたから。

ライトノベル研究所のことを教えてもらったのはその時だったなぁ。その最優秀賞君が手書きのURLをみんなに見せて、「こういうサイトが有るんです!」って。なんというか、当時はまだインターネットとか全然身近じゃなかったから、利用してはいたけど電話回線だったし、そういうところへ接続するっていうこと自体が特別な感じがしたね。まぁ、検索で一発で出たんだけど。それからしばらくあっちの掲示板に書き込んだりしてたけど、結局作品は投稿しなかったな。チキンだったからね。

最優秀賞の彼は今どうしているだろう。名前も聞いたはずだけど忘れてしまった。いい大学に行っていい社会人になっているだろうか。ぼくみたいに落ちこぼれてやしないだろうか。もしかするとデビューしてたりするのかな。どうかな。それとも趣味で書き続けてるのかな。それともいっときのはしかみたいにすぐにやめてしまっているかな。当時あそこに集った面々の中でもう創作に囚われている人間がぼくだけだとしたら、それはそれでとても滑稽だと思う。フフってなるね。そうだとしたら、面白い。笑える。まぁ、神のみぞ知ることだけれど。

余談だけど、その受賞者同士の交流って、互いがどんな作品を書いたか知らないままで始まったんだぜ。ぼくは思ったね、おいおいお互い知らない者同士でフックもないのに話しろってのかとね。まぁ、普通は知らない者同士だからこれから知ろうって話なんだけどさ。自己紹介と同時にどういう話を書いたかも紹介したらどうかな、って提案を口に出せたら良かったのかな、って今でもちょっと思う。

まぁもう10年以上も前の話だね。10年一昔という言に則って言えば、まさしく昔話さ。

 

 

さて。

こんな天気では外に走りに行けるわけもなく、しょうがない、今日のやりタイムは室内でできることから選ばなきゃいけない。

いや、別に傘差して歩きに行ってもいいんだけどね。前にやったことあるしね。でも寒いんだなこれが。

書き始めたのがほぼ3時ちょうど。現在3600文字で4時17分。

昨夜は友人にリクエストしたSSを受け取ってそれについて語り合っていたから、寝たのが2時近かったんだよね。なのでとても眠い。

でもそうやって文章について語り合うのは、とても楽しい。ここをこうしたら、とか、ここがいいね、とか語るのがとても大好きだ。なのでつい、今日は文章に関する長話をしてしまった。

一時期は綺麗な文章とか美しい表現とか技巧を駆使した言い回しとかに傾倒した時期もあったけど、今はもう、熱意さえ伝わってくる文章なら、多少作法が崩れててもいいじゃないと思いつつある。小学校で野球部だったときによく言われたのが、「コントロールは練習でどうにかなるが、球速はもって生まれたものだ」って言葉だったんだよね。

当時はよくわからなかったけど、今なら意味がわかる。形を整えるのは練習でできるんだ。ボールを同じところへ投げるには、同じフォームで同じポイントで球をリリースすればいい。これは投げ込みで誰でも同じようにできるようになる。まぁきちんと投げ分けるのは難しいけど。でも、球速っていうのは、言ってみれば持って生まれた筋肉をどこまで駆使できるかってことだ。肉体改造によって上がることもまぁあるだろうけど、小学生に桑田真澄ばりの筋トレを強いるわけにもいかないしね。練習でつきやすいのがコントロールか球速かって言ったら、前者だと思う。……まぁ、上の言葉が本当かどうかっていうのも、よくわからないんだけどね。その方面のプロじゃないし研究者でもないから。(逃げ道)

なのでまぁ、コントロールと球速の関係性が、熱意と修辞技法にも言えるんじゃないかなって。そういうことをよく思う。

それは短い話を書く時の話で、それとは別に、長く多く書き続けるには書くことを習慣にするのが大事だっていうのも、今は実感としてある気がする。

結局書き続けなきゃだめなんだよね。毎日ちょっとずつでもやっていったほうがいい。きっといい。絶対いい。

 

 

昨日は結局6時半ころまでうだうだとして、母が帰ってきて、それから7時頃に走りに行ったよ。往復で3キロくらいかな。40分くらいかかったかな。日がすっかり暮れて、というか月が綺麗だったくらいの時間だったからだいぶ寒かったね。でも走るときの筋肉への刺激が気持ちいいなと思えたのは驚きだった。びっくりだ。

弟からもランニングは続けたほうがいいよと太鼓判を押されたので、なるだけ続けていきたいなと思う。弟は元柔道選手で大学もそれで進学しただけあって、体の造りや扱いにも詳しいんだ。しかも折に触れてその知識を他人に伝えられるくらいに身についている。対してぼくはといえば、記憶にあるはずの知識すらうまく思い出せなくて他人に伝えられないときている。つくづくぼくとはかけ離れた、よくデキたやつだと思う。

 

さて、ふと見れば雨が止んでいる。止みそうもないとはいったいなんだったのか。適当なこと言いやがって。

こうやって長く文章を書いていると実に肩や背中のあたりに疲労が溜まってくるので、ここらへんはきちんと鍛えてやらないといけないのだなと思う。腕立て伏せだな…腕立て伏せかぁ…でも膝突いてやらないと支えきれないんだよね。女子か。

もうすぐ5時になるので、そうだなぁ、やはり1時間ほど走って来たほうがいいかな。眠いけれど。辛かったらウォーキングに切り替えればいい。ダラダラ歩いてもいい。とりあえず体を動かそう。

どのくらい意味があるかはわからないけど、とりあえずね。

5023文字

*1:たぶん新潟県高等学校文化連盟の略

時代に迎合できない者は命を捨てるか世を捨てるしかない

4月10日 晴れ

良い天気だ。しかし少々風がある。

 

帰宅は1時15分頃。規定なら開始は3時15分頃。しかしこれを書いてるのは4時だ。よろしくない。折角なんとなく書かないと落ち着かないくらいのポジションに来たのに。

 

仕事がぎりぎりだったので備品のセットアップを一つ忘れてきてしまった。否、忘れてきたということにして他人に丸投げした。誰かが適当にやってくれるだろう。

 

ちょっとwikipedia織田信長のページ読み漁ってしまった。40分くらい。

さて。

 

FGO……Fate/grand orderのイベント「ぐだぐだ明治維新」をプレイしている。内容はぐだぐだなので仔細は省くが、そのワンシーンで、キャラクターである織田信長(FGOでは女性)と織田信勝(信長の弟なので信行と言われている人物だろう)がこんな会話をする場面がある。これまた仔細には覚えてないので会話の流れなのだが、

 

信勝「やらなければやられる戦国の世にはもううんざりです。幼いころのように姉上とずっとこの空間で遊んでいたい」

信長「……もっと早く寺にやっておくべきだった」

 

最初はそんなもんかとスルーしていたが、以下のツイートを見て以来、このやりとりが刺さり続けている。

https://twitter.com/saigaita/status/850571313156468737

ヤンデレ弟を見たノッブの反応が「はやく寺にやっとけば良かったな」なの、信勝くんの狂気の根底にあるのは戦乱の世への嫌悪と恐怖であり、姉への執着も真実ではあるが本質的にはその隠れ蓑にすぎないということを的確に理解していて、ノッブめっちゃノッブ。頭良くて情もあるが他者の心を踏みにじる。

(FGOというかFateは独自解釈も多いので、信勝の謀反や挙兵に関しては『姉(信長)に天下人の器があるおことを証明するための手法』であるということになっているらしい。「老害の家臣たちを煽って一掃できた」みたいな言い回しもあったし。

註:この部分について後日訂正記事を書いた 訂正記事→4月10日の一部 - 遺書手紙日記

こういう回りくどい愛情表現をするキャラクターがFateに限らずきのこ作品には多いと思う。)

(この注釈は誰向けなんだ)

ぼく自身は、このやりとりを"踏みにじっている"とはあまり思わない。ただ信勝自身のためにそうした方が良かったと考えているだけのことだと思う。お前の要請には応じられないとぶった切ってるという意味では同じだけれど。

作中での信勝の描写は、ぶっちゃけて言えばヘタレだ。ぐだぐだ時空の閉じられた空間で子供の頃のように平和に(=何も考えずに)過ごしたいという願望を吐露する。どう考えても戦国の世を生き抜くには値しない器だ。

対してFateにおける信長の思考は、口癖からも察せられる。すなわち「是非もなし」だ。恐らく本能寺の変の際に発したとされる「是非に及ばず」が元ネタだろうが。つまり、「やりたいとかやりたくないとか関係なく(やるべきだと思ったら)やらなきゃいけなかったんだよ」ということだ。

ゲーム、つまりほとんど元ネタに沿っているかどうかもわからない二次創作からこういう考えを導き出すのもいかがなものかと思うけれど、こういうカリカチュアライズされた対比というのは、やはり娯楽作品の楽しみ方の一つだと思うので、ここでは突っ張っていく。

そういう意味で、このイベントに登場する信勝くんの扱いがぼくに刺さる。

今の時代、能力のある者が管理労働に就いて、そうでないものは単純労働で使い倒される、なんていう持論を展開したのは確か昨日の日記だったか。

何を書こうかと考えているとき、ネタもまたどう書かれようかと悩んでいる(大嘘) - 遺書手紙日記

いつの時代も、今の世の中を上手く渡っていける人間がいて、そうでない人間がいて、じゃあ後者は、適応できなかった人間はどうすればいいのだろうと。それに対する一つの回答をなんとなく受け取ったような気分にさせられてしまったのだ。

 

つまり。

信勝くんみたいに現状を変える能力も現実に立ち向かう覚悟もないなら、死ぬか仏門に入るしかない。

時代に迎合できない者は命を捨てるか世を捨てるしかないのだ。

と。

 

 

 

そんなことをぐずぐずと考えながら、今日は仕事をこなしていた。

実に実に暗澹たる気持ちだった。

まだ二度目の首吊りはしてないけれど。

このまま修行僧のように単純労働を繰り返す日々を死ぬまで続けるのは、悲しいことだ。でも自分の能力は所詮その程度かもしれないという諦観はある。まだこのままで終わりたくないという恐怖はあるが、やっぱりできるはずがないという思いもある。

つらい。生きるのがつらい。

 

人生って椅子取りゲームみたいだ、と最初に思ったのは、いつだっけなぁ。

そう思ってはいても、その本質までは考えが回らなかったな。

自分が席に座り続けるにはどうするか、席に座れなかった人間がどうなるか、なんてさ。

ずっと自分が席を取り続けるに値しない人間だと思って生きてきたけれど、本当にそんな人間だとは思っていなかったのかもしれない。本当に思っていたのかもしれないけど。

だとしたらやっぱり、潔く死ぬべきだった。どこかのタイミングで。

でも、どこのタイミングで?

そんな勇気すらなかったのに。

 

もうすぐ6時だし、思考が堂々巡りしてきたので、いや普段堂々巡りしてないかというとそういうわけでもないが、とにかく面倒くさくなってきたしこの先があるわけでもないので、今回はこれで打ち切る。

いずれぼくのこれまでの半生辺りは記事にしておきたい。何の意味もないとしても、なんとなく。

あとは、そう、仕事をするにあたって、フルタイムの仕事をするにあたって、何が怖いか、ということを洗い出そう。何の意味もないとしても。

 

ああ。頭が重い。体調はあんまりよくないし、睡眠の質も悪いけど、でも明日も仕事に行かなきゃいけない。

4連勤は辛いなあなんて世間様に向けて言ってみろ、白眼視しかされないぞ。

でもぼくにとっては辛いんだ。1日5時間+残業1時間程度を4日間連続こなすだけで、ぼくは、よく頑張ったなあって褒めてもらいたくなる人間なんだ。

こんなんで真人間の権利を得られるんだろうか。わからない。わからない。多分ムリだと思う。

でも何か奇蹟でも起きて罷り間違ってくれないかなという期待だけは捨てられない。

そういう儚い望みを断ち切るために仏門に入るべきなんだと思う。

 

ああ。褒められたい。褒められたい。褒められたい。絶対的な存在に、お前はお前のままでいいんだよ、って言って欲しい。絶対的に信頼できる存在に、絶対的に能力のある存在に、絶対的に安心できる存在に、お前はお前のままでいいんだよ、お前はよく頑張ってるよ、お前はそこにいていいんだよ、お前は価値のある人間なんだよ、って言って欲しい。それでぼくは、そうなんだって、納得して、それから歩いていくんだ。そうして頑張って、色んな物を乗り越えていくんだ。それが健全な人間のデキ方なんだ。

それがぼくにはなかったんだ……と思う。多分……だけど。

それを得られなかったためにぼくは一生かかってその安心感を得るためだけに生きていかなきゃならないとしたら、これはやっぱり悲劇だよねえ。

でも世の中にはそういうものを得られなかったけどそれでも生きてる人は多分いっぱいいて、だから結局、ぼくが優秀じゃないのはぼく自身の責任ってことで………………

ああ……生きるのってつらいなぁ……。

 

 

 

【創作漫画】「映画大好きポンポさん」漫画/人間プラモ [pixiv]

ちなみに具体的にはこの漫画の72P目や86P目みたいなのが理想だ。全力でやって、こいつはすごいなとお眼鏡に叶うみたいなのが理想だ。

ああ、羨ましい。物語の世界に入りたい。

 

物語の世界に入りたいといえば、FFCCの世界が一番いい。

平和的な絶望感。

牧歌的な閉鎖感。

開放的な責任感。

一つ間違えば村一つが全滅する世界だというのに、みんな生き生きしてて、のんびりしてて、毎日をきちんと過ごしている。

瘴気に包まれて明日をも知れない世界で、それぞれの生き方を全うしている。

そんな中でひたすら戦い続けて、旅を続けて、村のために体を張って生きていく。

あの充足感はきっと、何物にも代えがたいものだろう。

他にもドラクエモンスターズとかポケモンとか、ハマらなかったけどモンスターファームとか、ずっとずっと好きなことを好きなままで好きなだけやっていける世界観があまりにも好き過ぎる。

その中で時間は経過せずに、或いは経過しても変化はなく、ずっとずっと工夫と実践が続き続けるような世界観が、あまりにも好き過ぎる。

そんな人生を送りたすぎる。そんな世界に入りたすぎる。

 

現実に軸足を置きながら、そういう世界にも没頭できる、そんな器用な人間だったら、どんなに良かっただろう。

或いは現実に出稼ぎに来るだけでそういう世界にずっと居続けられる、そんな能力のある人間だったらどんなに良かっただろう。

若しくは現実でそんな世界を生み出したり創り上げたりできる、そんなポジションにいる人間だったらどんなに良かっただろう。

だが現実はそうじゃない。

ぼくは片田舎のスーパーで毎日仕事に追われながら半日で帰宅する、ただの人非人だ。

器用さも能力も立場もない。

ああ。ああ。

ああ。

3726文字

何を書こうかと考えているとき、ネタもまたどう書かれようかと悩んでいる(大嘘)

4月8日 どんより曇り

神様がフィルター掃除を怠ったかのような曇天である。

うちのヒーターのフィルターと同じような色の空だ。

 

さて、今の時点で帰宅後2時間である3時半から30分経過して4時である。だいたいFGOが悪い。

外に出られない天気ではないが、さりとて陽気では決して無い。どうしたものか。

体調もあまり優れない。今日も早朝覚醒というかなんというか、目覚ましよりずっと早く目が覚めてしまってそこから睡眠の質はがくんと落ちる。遅刻の恐怖に苛まれながらあと1時間半くらいを過ごすことになる。これでは横になって寝ているのか哨戒中の居眠りなのかまるでわからない。

その割に仕事でミスしないでいられたのは、まぁありがたい。もっともこの程度の難易度の仕事でこの程度の時間、ミスとかフツーありえないだろと常人なら思うのだろう。俺もそう思う。頭の中だけは一端にまともだ。理想だけは。望みだけは。

 

 

数日前のことだが、フルタイムの郵便局のアルバイトの募集葉書が投函されていて、郵便局も人手不足なのだなと思う。

もっとも、人手というのはこの場合、体よく使える労働力と言う意味だが。

大学全入時代だとか言われる割には、世の中にはそこまで頭を使う仕事のポストは多くないし、そのポストに収まれるほどの器と頭脳を持つ人間はもっと多くない。それを自ら作り出せる人間なんて更に稀だ。世の中は現場があって初めて仕事が回る。頭は一つで良いが、手か足が一本しかないとしたら不便極まりないのと同じだ。というか一本欠けてるだけで物凄く、物事が不便になるだろう。

今から少し先の未来の労働内容は、管理労働と単純労働という二極化になっているのだろうなぁとSFっぽい空想をしている。というかもうそういう世の中になりつつあるのだと思っている。

前者はヒトモノカネを管理する、頭を使う労働。仕事に対する責任や成績を望まれる替わりに、地位や収入や肩書を得る。

後者はヒトモノカネで使役される労働。仕事に関する責任はなく、来る日も来る日も似たような作業を繰り返すだけの仕事。責任を問われないがいくらでも代用が利くので簡単に入れ替わる。収入も労働の単純さや責任に比例して軽い。

やっぱなりつつある、というかもうなってるよね、うん。

更にSF的に考えを進めるなら、後者の仕事は、いずれ技術が進めばすべて機械、ロボットに取って代わられる作業だ。最近日本産のGPS衛星がナントカっていう話題あったよね…っと、これだ。

qzss.go.jp

これ、凄いよね。たしか今のメートル単位の精度から数センチの精度まで絞り込まれるんだっけ。ざっくりした情報で悪いけど。詳しくは適当に↑を読んでね。

今もう絶賛開発中だと思うんだけど、センチメートル単位のGPSと自動運転システムを連携した仕組みを構築すればさ、これもう長距離ドライバーなんていらないよね。何時間もかけて何百キロ走るような超絶危険で確実性のない仕事を人間に任せる必要なんてないよね。

実を言えば母の実家が米農家で、そこの親子*1が長距離ドライバーなんだけど、さ。あんな激務、体力に自信ないとなかなかやってらんないと思うよ。それでもやる人がいるんだよね、あれ、稼ぎがいいから。でもって求人情報誌とか見ると絶対に長距離ドライバー募集の求人がある。人が足りないから。激務だから。みんなやめていく。そらまぁ好き好んで徹夜で日本横断したりする仕事なんてやりたくないよねって。

でも長距離ドライバーは、手足なんだよね。手足というか、血液だよね。赤血球だよ。この人たちがいないと日本回らないよ。ぼくの店にも毎日3回くらいに分けてトラックが来て、荷物置いていくよ。彼らが日本の流通を支えてるんだよね。彼らがいるからぼくらは家から歩いて10分の店舗でおかずが買えるんだ。

だけどその人たちより、空調の効いた部屋で、8時に出勤して5時に退勤して、プレミアムフライデーの恩恵を受けられるような、そういう人たちの方が偉いんだよね。管理する立場だからね。

まぁでも、どっちが欠けても流通は回らないのか。頭がなければ手足は動かない、心臓が押し出さなければ血液は流れない。そうなるとやっぱり、代えが利くドライバーの方が価値も地位も低くて当然なのだなぁ。

金鉱を掘るより金鉱を掘る道具を売る商売の方が儲かる、とは誰の言葉だったか。弟から聞いたんだけどね、この言葉。町工場で使う工業機器のルート営業の仕事してるからね。

悲しいなぁ、世の中って悲しいなぁ。

でも当たり前だよね、単純に体を使うより、頭を使う方が、効率的なんだ。100m走はトップランカーでも10秒くらいだよね。でも万年運動不足のぼくでも20秒はかからないだろう*2。体を使うっていうのはそのくらいの差しかつかない。でも、100の事柄を思い出す必要があるとき、頭のいい人は、5秒くらいで全部思い出すかもしれない。これが100m走ならぶっちぎりで世界記録だ。10秒でトップランカーだ、12秒で65歳以上の世界記録だ、20秒だと95歳以上の記録になる。そして、100の事柄を完走できればまだマシな方かもしれないよね。頭を使うっていうのはそういうことだし、頭がいいっていうのはそういうことだ。Aという1単位の時間を、何倍にも何十倍にも圧縮できる。圧縮どころか展延もできるし連想もできるしとにかく伸縮自在だ。これは体の格差より遥かに大きいんじゃないかと思う。大きいらしいとどこかで見た。ぼくもそう思う。

早く全部全部全部機械化されて、人件費なんて言葉は辞書の片隅に掲載された古語になる日がくればいいのに。

人間は機械にペットにされればいいのに。今人間が猫を可愛がるように、機械が人間を可愛がる、これも誰かの受け売りだけれど。ははは、不合理ないきものだな、だがそこが愛らしいんじゃないか、見ろ、こんな芸もできる、おれたちなら一瞬なのに人間ってやつはこんなに時間かけないとできないんだな、ははは、ほらご褒美だぞ。

ディストピアか? ユートピアか?

さあ、どうだろう。ぼくにはわからない。まあでも、多分そうなる頃まではぼくは生きていないだろう。

生きていなくても、想像することができるから、やっぱり頭って凄いな。

 

 

現在5時16分。2590文字。

昨日のやりタイムでは日記を下ろすこととストレッチができた。

本に掲載されていたストレッチを片っ端からやってみたが、本来はいくつか選んで自分でメニューを組んでやるものらしい。ぼくの場合は背中や肩甲帯周辺と脚部を重点的にやりたい気分だ。

日記はうーん開いてみれば休日を書き込むくらいしかすることはなかったな。メモやアイディアを書き込むようなスペースはあまりない。この日記はそういう使い方を想定されていないのだろう。ほぼ日手帳を買おうかどうか迷うな。運転免許の更新があるから出費が嵩む。

今日のやりタイムはどうしよう。

とにかく眠い。眠い。眠い。でも睡眠に充てるのは、どうなのだ? 使い方間違ってないのか?

積んであるタスクはこないだの本の感想文くらいか。そうそうそれと3月分の出納帳をつけねばなるまいか。多分2月分もつけてないけどね。

書き始めたときの天気は相変わらずで、雨は降ってないので外には出られる。

或いは少し前から頭のなかで踊っている文章の種を育ててみようか。

 

少し離れた場所に住んでいる弟が、週末になると帰ってくるのだが、仕事の日報や週報のまとめのようなものを毎度毎度この家でやるのだ。それと休日には勉強ノートなるものが義務付けられているらしく、切削機械のカタログを覗いてはルーズリーフに何か書き写している。あの光景が、体たらくを晒しているぼくの精神をガリガリ削る。微笑ましいと思う一方で羨ましいと思い、劣等感と罪悪感を海の塩で洗って山の頂で天に晒しているような気分にさせられる。

「なにかやりタイム」には、アレに対抗する目的も多少あったりする。理性的に考えれば、対抗できているとは到底思えないが。

3267文字

*1:ぼくからするとおじさんといとこ

*2:一回限りならね