遺書手紙日記

覚書、或いはTLを汚さないための長文

また間が空いた件について 或いは体調とは体を調べると書くのこと

4月7日 雨のち曇り

昨日の午前中は大変良い晴天だったのにその午後から崩れていき、どうやら週末は完全に天気が悪いとかなんとか。こう寒いとランニング中に喉をやられてしまうのが怖くて外に出られない。

まぁポケGoのためにもちょこっとくらいは出ておきたい。2キロ卵くらいは割っておきたい。いや今は5キロ卵を孵卵器に入れてあるんだったか。

 

4月5日は残業のため、規定ではこの日記を書く必要がないのだが、実は多少は書いておきたかった。毎日1000文字くらいは、リハビリのために。なのだが通常業務+1時間休憩+2時間残業の合計7時間業務ぽっちで、どうにも疲れ果てて、ずっとぼんやりとしてしまった。

普通の人は1時間休憩+8時間業務+残業を毎週5~6日こなしているというのに、まったく自分の能力の低さに嫌気がさす。

 

4月6日は休日。友人の訪問が午後から。

午前中のうちに自立支援医療に関する診断書含む書類を取りに行った。

この時はいい天気だったのに、午後からは肌寒い曇り空になっていて、夜に差し掛かる頃には雨になっていた。

友人との会話は気が楽だが、少々刺激に欠けるのが問題だ。弟たちとリア充の真似事をしたときのような目まぐるしい展開はない。だらーっとした時間はそれはそれで悪くない気持ちだが、いまひとつテンションは上がらない。

 

昨夜は風邪っぽかったが、今日はどうにか眠気だけで済んでいる。悪寒とか胃がひっくり返るような感覚とかは引きずらなかったようだ。

しかしこの眠気がクセモノで、ぼくの場合は寝付きはともかくとして寝起きが大変悪いのだ。

会社に行きたくない、働きたくないというだけの感情なのだけど、吐き気がしたり胃が捻れたような感じになったりする。昨日は遅刻した夢を見て飛び起きた。ちなみに今朝は300万円を紛失した夢を見て動悸とストレス(切迫感と焦燥感)で目が覚めた。

こんな感じで朝すっきり起きれたことがここ最近まったくない。元から朝には弱かったが、弱いに加えて辛いまで重なってしまってどうしたものかと悩んでしまう。

寝入り端を良くする薬はあっても寝起きを良くする薬はほとんどない、と医師からは言われた。そういう薬を飲んでしまうと過眠の可能性もあるし、と。

期待はしていなかったが、やはり残念な気持ちになった。

寝具を変えればいいのかもしれない。とはいえどんな寝具が良いのかもよくわからないし、お金もそこまで余裕はない。

二度寝も苦手だし昼寝も苦手だ。

そんなこんなで、今も鈍い眠気と戦いながらキーボードをガチャガチャしている。

 

本日のやりタイムはストレッチと手帳を下ろすことと、散歩。それとできれば少し眠りたい。あとは時間があればこないだの本の感想文も書こう。

roji-no-koishi.hatenablog.jp

に書いたことと被っているが、実はこの日走るだけ走ってそれだけで時間が潰れてしまったのであった。

いやぁちょっとスピード出そうとするとほんとキツいっすね…やばいっすね…。全然スピードが持たない…。

そんなこんなで4日のやりタイムはそれに終始してしまったのだ。

 

うーん、ネットサーフィンはやりタイムに入れたくはないが、IRCで面白そうなURLが流れてきてしまうとつい読み漁ってしまう…よくない…。

1331文字

筋肉痛であるということ

本日のやりタイムは2時15分からのはずだったのにこの日記を書き始めたのは2時50分である。

よろしくない。

 

さて、今日は天気が良いので外へ出たい。よって本日のやりタイムではまずランニングでも行ってこようと思う。

今日は妙に調子が悪いと出勤前に思っていたら、案の定ミスを連発してしまった。悲しかった。

それとは別に妙に腕の動きが悪い。重いような鈍いような……。思い当たる節を探して気付いたのは、昨日一気に6000文字以上もタイプしたからではないかということだ。

おいおいぼくの体は長文を書く体力すらなくなっていたというのか。たったの6000文字で。たったの3時間で。

いやしかし座りながら腕を動かし続けるというのはこれはこれでなかなか重労働であったりもする。軽い運動でもしていたほうがなんぼかマシなレベルだ。人間の筋肉は常時同じ姿勢を維持するようにはできていないのだから。

 

そういえば先日図書館へ行ったときにこんなのも借りてきていたので、これを見ながらストレッチとかもしておこう。

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それとボウリングのせいだと思うのだが、脚もやや筋肉痛を持っている。

ランニングしてたのに……ショック……。と思ったものの、そもそもランニングは長く遠くへ走ることを念頭に置いているわけだから、脚の筋肉そのものへの負荷は案外かからないのではないかという発想に至った。だいたい、筋肉痛を感じている部位とランニングで使いそうな部位が結構違うし。

なので走っている最中にそこらへんに多少負荷をかけるような遊び走りの要素も入れていきたい。ような気がする。

そもそもドッタバッタした走り方をしているので、あんまり脚は鍛えられてないのかもしれないなぁ…よくわからないなぁ…。

 

今日やりたいことの第二は手帳を下ろすということだ。

4月1日始まりであるのに、新しく買ってみた手帳を今日まで一度も触っていない。せっかく買ったのにこれはイカン。

なので今日やってしまいたいと思う。

下ろすと言ったって何の事はない。仕事の日程を書き込んで、懇意にしている友人の日程もついでに書き込んで、あとは薬を飲んだ時間やちょっとしたメモを書き込む程度のことだ。

日記が必要なほど忙しいわけではない。残念なことに悲しいことに情けないことに、ぼくの脳は手帳が必須になるほどの忙しさに耐えられない。が、ともかくなんか気分でも変わったらいいなあという効果を期待してのことだ。あと手帳ってかっこいいし。

もしも、もしもこの手帳を利用することで、ぼくの中のナニカが触発されて、今使っている手帳ではメモ欄が間に合わなくなるとしたら、その時には先日の記事で書いた「ほぼ日手帳」を購入しようと思う。手帳にしてはかなり値が張る気がするから二の足を踏んでいたけれど、そうしようと思う。

 

ここでメモ的に家族の使っている日記のことを記しておく。

母:3年分が1冊に入ってる手帳。2017年-2019年のものだった。曰く、「去年の今頃何してたかなって見るのが楽しい」

弟:持っている。ただしあまり利用していないようだ。客先で軽くメモをとるだけ、というようなことを言っていた。

 

1340文字。

せっかく朗らかだった陽光がなんだか陰ってきたが、とりあえず出てこよう。少し眠いのが心配だが。

 

近々、ぼくが大人の男性を嫌っているということについて記述しておく。これはぼくのパーソナリティに穿たれた一つの楔だ。オトナのオトコという存在が物凄く嫌いだということは。男の子がこういう苦手意識を持つとろくなことがないというのは多分発達心理学的には常識なのだろうが、自分の場合もまさにろくでもないことになっていると言っていいだろう。自分の幼稚さを棚に上げて父の批難をするのかと別の自分が言っているが、うるせえやらせろ、これが俺のエゴだと言い返している。

多分、どちらかと言えば、やったほうが良いことなのだ。多分。それに、今更、何の意味もないとしても。

1665文字。

早速日が空いた理由の話 或いはリア充の真似事の記録

日が空いた理由

日記というのは難しい。

一日二日、日が空いただけでもう書くことが積もり積もってしまって面倒くさくなってしまう。

いや、おかしい。普段ぼくは書くことがない自分の中には何もないとそんなことばかり思っていたはずだったのだが、はて、書くことが積もり積もってしまうとは一体全体どういう了見だろうか。頭でも打ってしまったのか。確かに偏頭痛はあるが、これは多分寝不足のせいだ。

 

この日記は基本的に「なにかやりタイム」の始めに書こうと思っていて、「やりタイム」内で何をするかを文章を書きながらまとめるとか、前日の「やりタイム」を振り返るとか、そういう目的のために書くものだと、自分の中では定義付けている。

つまり、「やりタイム」を取れなかった日の場合は必然的にこの日記を書けない、或いは書く必要がない、ということになる。

「やりタイム」は仕事がある日の午後の手遊びであるから、仕事が無い日や午後の用事がある日はこの日記は書かれない可能性が高い、ということだ。

 

回りくどいが要するに1日と2日は用事があったのである。

別に朝から晩まで動き続けて疲労困憊というアレではないが、そこそこ疲れてはいたからそこは平にご容赦願いたい。

ご容赦願いたいと言って、誰が誰を容赦するのかといえばそれはぼくがぼくをということにほかならない。この日記はぼくがぼくのために書こうということにしたはずなのだから。

 

リア充の真似事の記録・序

さて、ぼくは4月1日に起こった事態についての記録を残しておかねばならない。この日はぼくにとってイレギュラーな日であり、しかも喜ばしい方面でのイレギュラーな日であったからだ。

普通、突発的な事態というのは得てして嫌なことである。真夜中に礼儀を無視して鳴る電話は吉報を伝えるものなどでは決して無い*1し、臨時の出費は多くても臨時の収入は少ないものなのだ。

しかしこの日ばかりは違った。

 

登場人物は4人。

ぼく(パート社員の非リア)

弟(営業職のリア充・ぼくの3つ下)

弟の彼女(接客業・ぼくより何歳か上)

弟の友人(弟の学生時代の後輩で弟と同じ会社・弟の1つ下)

 

4月1日、土曜日である。

ごくごく普通の会社に勤めている弟と弟の友人…面倒だな、T君としよう、彼ら2人は普通に公休で、接客業であるぼく&弟の彼女…仮にQ嬢としよう、この2人も奇遇にも公休であった。

弟は少し離れた地域にT君とアパートをシェアしていて、土日になるとぼくがいる、言ってみれば実家へと帰ってくる、そんな生活をしていた。

Q嬢の家もどちらかと言えばぼくが住んでいる実家の方に近く、土日には割合頻繁に行き来している。

 

話すと長くなるので省くが、この弟、ぼくとは比較にならないほどデキた弟である。

そしてその彼女であるQ嬢も、ぼくより数歳上とは思えないほどフレッシュな感じのあるお嬢さんである。

恐らく近々結婚するのだろうが、そしたら年上の妹なんだなぁとちょっと複雑な気分になる。

勿論嬉しくないわけではない。言葉遊びとしては定番ながら、なかなかあり得るシチュエーションでもない。

奇異で、稀有、である。

 

この土曜日もQ嬢は我が家に来ていた。というか、朝から居た。前日に泊まったのだった気がする。

天気は快晴とはいかないまでも、そこそこ明るい空模様。花曇とはあのような空を言うのだろうか。肌寒さはあるが外へ出かけるに不都合はない、というような微妙な晴天。

きっかけはQ嬢の発案だった。

(ちなみに会話は全部うろ覚えなのでこういう流れだったよという捉え方で見て欲しい)

 

Q嬢「牧場に行けそうな天気ですよね! 牧場行きたいです!」

ぼく「はい……はい?」

 

牧場。

ぼくはしばし考えた。

牧場へ行けそうな天気。そうだな。その日の天気は前述の通り、外出には最適とまではいかないが、悪くはない。ただそれを指して『牧場へ行けそうな天気』とは。すごい発想もあるものだ。ぼくは呆気にとられるしかなかった。どうやら話を聞くと牧場へ行くのが結構好きらしい。らしいというのはその時の会話をよく覚えていないからだが、少なくともそれほど強い動機からの発言ではなさそうだったような覚えがある。

非難しているわけではない。ただ、出不精で、必要がなければ外へ出ないような人間にとってみれば、天気が良い→牧場へ行こう! という思考回路にただただ感服するばかりであったのだ。

 

そうしてあっという間に連絡網は回り、

弟「じゃあ、昼からね。Tも来るからね。準備しておいてね」

ぼく「お、おう」

ぼくはそそくさとグラブルやら何やらの消化を終わらせながら、これがリア充の行動力かと恐れ慄いた

 

さて、近場でT君と合流して。

ぼく「ところで牧場って、この辺にあります?」(Q嬢は年上なのでぼくは敬語を使う。たまに崩れる)

Q嬢「えーっとぉ~…○○牧場っていうのがあるので、そこに行きます!」(向こうからすれば義理の兄なので敬語で話す)

ぼく「道順大丈夫です? もしでしたら地図出しますけど」

Q嬢「ありがとうございます!」

グーグルマップに感謝する瞬間だった。

 

道中、まだ昼食を摂っていなかった弟とQ嬢のため、それと昼食は食べたが巨漢であるぼくとT君のために、つまり結局全員の需要から、近場にありながらまだ入ったことのなかったパン屋へ入った。

外見は洒落ているのに中は竈から出る煙がダイレクトに流れていて、ラーメン屋みたいな泥臭さだなと思った。

味は大変良かったが、多少値は張ったので、よそ行き用かなと思った。

 

リア充の真似事の記録・牧場

我が家は平野部、どちらかというと田んぼに囲まれた田舎なのだが、そこから車で30分ほど、山の麓へ分け入った辺りにその牧場はあった。

地元ではそれなりにCMとかもやっている古くからある遊園地の姉妹施設であるらしいその場所は、まぁなんというか、見るからに予算かかってねえなあという感じの、寂れてはいないがくたびれてはいる、そんな牧場*2

管理棟の名前の浮き文字(今調べたらピット文字と言うようだ)が一つ落ちている。直す予算が降りないのだろう。

入り口を示す門に掲げられている看板は思いっきり手書きで、それもサラブレッド種であることは分かるもののかっこいいとも美しいとも言えない地味なイラスト。

動物たちもなんとなくお疲れ気味で毛並みもお世辞にも綺麗とは言えない。柵もボロいし備品も年季が入っている。敷地も広いはずがなく、これなら野球場の方がまだ歩き甲斐があるだろうという風情。

「牧場」という単語から想像できる爽やかさや開放感とはかなり縁遠い牧場であった。

 

車から見えたその光景に、さしものリア充たちも一瞬言葉に詰まったようだった。少なくともそんな雰囲気が流れたような気が、ぼくはした。

つまりその牧場、全員初見らしかった。

Q嬢は牧場が好きだったのか、それとも憧れだったのか、行ってみたかっただけだったのか、今となってはよくわからない…。

 

しかしリア充リア充たる所以はどんな状況でも現実を楽しむことにある。

入場料の500円(うち100円分は餌代。小さなバケツにキャベツと人参が入っていた)を払うと、彼らは普通にその草臥れた牧場を楽しみ始めた。

兎と戯れたり、ポニーに餌をやって手を噛まれたり(これはぼくだ)、サラブレッドを馬面だと笑ったり、ヤギかわいーと黄色い悲鳴を上げたり、アルパカとにらめっこしたり(唾は吐かれなかった)、まぁまぁ色々だ。

そして極めつけは職員の人にスマホを持ってもらって記念撮影。

たのしかったです(こなみかん)

弟はほとんどT君と話しっきりでぼくとQ嬢の方がむしろ一緒にいる時間が長かった気がするが、ぼくの気分は飽くまでゲスト、というかお呼ばれされた側という認識でいたのにも関わらず、それを脇に置いといてリア充の真似事ができたのは、おそらく弟の人徳によるものだろう。

Q嬢も人間としてはてんでダメダメなぼくに分け隔てなく接してくれるし、T君も弟の友人だけあって好漢だ。

記念撮影の中で一人だけ浮いていたぼくであったが、気分そのものはのけものではなかったように思う。

 

……めんどくさくなってきたぞ。どうしよう。

でも頑張ろう。

 

リア充の真似事の記録・甘味処

それから4人は牧場を出て、これまたグーグルマップで調べた近場の……なんというんだろうあれは……喫茶店というには和風だし、団子屋ともちょっと違うし、和菓子屋でもないな……あ、分かった。甘味処

これまた行き当たりばったりで近場にあるとこどこよと探して車で10分ほど、山を降りて麓を走って、狭い山道を少し登って到着。

他に客がいないことに一瞬だけ不安を覚えたが、入ってみれば囲炉裏や小上がりがある、和の雰囲気あふれる良いお店だった。にゃんこ先生*3みたいな猫の置物もあった。可愛かった。手作りの日用品の販売もしていたから、地元の人もよく来るのかもしれない。

ただし、「囲炉裏の炭が切れててすみませんね。なんちゃって」みたいなギャグを飛ばすご主人、ぼく一人だったら対処の仕様がなかった。本当に危なかった。一人じゃなくてよかった。リア充的には笑いどころだったので笑っておいた。

味も良かった。弟とT君はアイスクリームを食べて濃厚だねばりがあると喜んでいたし、ぼくは抹茶白玉善哉を頼んだし、Q嬢はモッフルという一見すると謎な和風甘味を頼んでいた。

餅+ワッフルだろうかとその時は思っていたが、どうやら今調べたら本当にそうらしい。なんだ、wikipediaにも記事があるのか。しかし2007年ころから広まったというから、まだまだ新しい部類の甘味なのだろう。

 

全員が各々食べ終えて歓談していると、弟が「あれやろうぜ、4文字以上しりとり!」と言い出した。

おお、おもしろそうじゃないか。きみらそんな面白そうなことをやっているのか。しりとりはだいたい言う単語が決まってきてしまうし短い単語は思いつきやすいからついついそちらへ逃げこんでしまいがちだ。4文字以上という縛りを入れれば普段使わないような単語を脳内から探してくることになるだろうから、これは単純なしりとりより脳が活性化するはずだ。きっと語彙力が鍛えられるに違いない。

そう思って「面白そうだね」と発言すると意外そうに「食いつきいいな、アニキ!」と言われた。

……やはり意外だったのだろうか。まぁ物静か(というより無感情)な方のキャラで通ってるから、そういう発言は確かにあまりした覚えがない。

ちなみに人前ではアニキとかそれっぽい感じに言うが、二人でいるときはもっと脱力した呼ばれ方をする。

その4文字しりとりだが、単純に4文字以上ではなく最初の単語から今の単語までを全部暗唱するオプションもついていた。おいそんな説明なかったぞ。などとは言わなかったが、つまりマジカル頭脳パワーで言うと"おぼえてしりとりバトル"をデフォルトで組み込んであったということである。

 

まぁしかし、これがなかなか、長い単語だと案外覚えているものだ。

最近WISC-Ⅲを受ける機会があったので調べたのだが、人間の短期記憶は「チャンク」と呼ばれる「まとまり」を基準としてそれを数個*4記憶できるというような作りになっているらしい。チャンクというのは認知上のまとまりであるので、例えば、ランダムな11桁の番号を憶えるのは難しいが、それが携帯電話の番号だったとしたら3-4-4という3つの「まとまり」に分ければ記憶しやすいし、更に言えば自分のスマホの電話番号を憶えるのはそれより段違いに、あるいは桁違いに簡単だろう。それは認識上においてそれぞれの憶える事柄(この場合は数字それぞれ)の結びつきが強いからだ。

こういう仕組みならば、「ぶた→たこ→こま→まり」という4つの群を憶えるよりは、それより総文字数の多い「りくじょうせいぶつ」という1単語を憶えるほうが、より簡単であるのは道理と言える。

4文字以上だと文字数が増えるぶん回答数が減ることもあって、単純な記憶力勝負にならずに珍解答も飛び出したりして、ゲームとしては実に刺激的だった。

ちなみに「りくじょうせいぶつ」はぼくが言った単語である。こんなワードが飛び出した理由がけものフレンズを見ていたせいであることはリア充3人には終ぞ分かるまい。

 

歓談もほどほどにその甘味処を出たのは何時だったか。

そしてどんな流れだったか忘れたが、ボーリングをしようということになった。

言い出したのは弟だったように思う。

 

やばい頭が疲れてきた。

ここまでで2時間半程度書いてるような気がする。5077字なので時速2000文字…西尾維新には程遠い。速さも文才も。

今日の「やりタイム」はこれだけで終わりそうだ。

本当は手帳を使い始める話にしようと思ったのに。

あと爪を切らなくては。

 

リア充の真似事の記録・ボーリング

このボーリングがまた性格が出るわ出るわ。

ぼくのプレイ傾向:とにかく基本に忠実、よく言えばまじめ堅実、悪く言えばくそつまんない堅物。まっすぐ投げてまっすぐストライクを取る、つまり点数に対して正面から突っ込んでいく。リリースが遅いのか、投げる玉がだいたい向かって左へ逸れていくのは悲しかった。1ゲーム目だけ100ポイントを越える。

Q嬢のプレイ傾向:重いボールに苦戦しながら男連中に応援されつつ奮闘。健気さはあるもののポイントそのものはあまり伸びず。

弟のプレイ傾向:1ゲーム目は割と普通。2ゲーム目から後述の「カーブボール」を会得しようと四苦八苦。スポーツ自体は上手いからポイントを取りに行けば高得点なのだろうが、そことは別の頂上を目指して登りに行き、ポイントを取ることとは別の評価軸を創造する。この評価軸を作ることで、低ポイントであるQ嬢を救いつつ、エンターテイメント性も演出し、自身の技術の向上も狙う。すごいな、と思った。ぼくには絶対できないことだ。これがリア充、或いはこれが我が弟。

T君のプレイ傾向:エンターテイメント性とポイントを兼ね備えた、4人の中で最もハイレベルなプレイヤー。T君のカーブはそのエンターテイメント性において大いに場を賑わした。スプリットになったピンを狙いに行ったり、ガーターすれすれを綱渡りしたり、勿論いつも成功するわけではないが、視覚的にな刺激は大変大きな評価軸の一つであった。弟は2ゲーム目から、このカーブボールにチャレンジし始めたのだ。更に彼の場合はポイントにおいても、ぼくと同等か、やや上の数字を取っていけるという、こちらの評価軸でもまた強さを見せつけてくれた。

 

楽しかったといえば楽しかったし、心理的な垣根も感じることはなかった。

しかしボーリングをしながらそんなことを考えるというのは、やはり気質的になんかこう、やはり根暗なんだろうなぁという気がしてしまうぼくだった。

もっと上手に生きられればよかったのにね。

 

ボーリング2ゲーム目が終わった時点で外はとっぷりと日が暮れ、今日はお開きにしようということになった。

T君と合流した場所へ戻ると、彼はこれから別の友人に会いに行くと言った。人と接するのが苦にならない人はすごいなぁと思った。

 

リア充の真似事の記録・終わりに

さて、そんなこんなで結構な長文になったが、そろそろリア充の真似事の記録を終わろう。

この記録に何の意味があるのかは分からないし、何の意味もないかもしれないが、少なくとも文章を書くリハビリにくらいはなればいいなと思う。なるかどうかは分からないが。

 

というか、はてブの記事でこんな長い文章を読む人はいないだろう。

6300文字だぞ。

*1:夜半の電話は自分の中で一つのトラウマである

*2:悪い表現ばかりしているが、ほかにもカップルや家族連れが数組いた

*3:夏目友人帳

*4:よく言われるのは7±1~2個

早くも挫折しそうである 或いはぼくと西尾維新

2017年3月31日

早くも挫折しそうである

 

はてブは記事内ジャンプはないのだろうか。

調べなくては。

 

他所様のブログを見ているとその華々しさ、有意義さ、個性、情報量にくらくらする。圧倒される。悲しくなる。苦しくなる。生きるのが辛い。

自分にはそのような熱意もなければ技術もないし才能もなければ性能もないのだ。考えれば考えるほど悲しくなってくる。

甚だ低スペックな自分が恨めしい。これまでも、そしてこれからもずっと、この低スペックを抱えて生きていかねばならないのだ。*1

 

今日も何度も仕事をミスした。貼り付けるべきシールを間違えた。商品の値段を間違えた。商品コードを取り違えた。

こんな無能をフォローする人たちも大変だろう。いっそ仕事をやめてしまいたいがこれをやめてしまってはPCも動かないしネットにもつながらないしゲームもできないしコーヒーを飲むこともできない。百合漫画だって買えない。

迷惑だ邪魔だ使えねえ奴だと思われながら*2自分の無能を心のなかで詫びながら職場を辞すのだ。

この世はあまりに悲しい。

 

昨日の本は読み終えた。

面白かったと言えるだろう。

作中で出てきたキーワードについて備忘録的に綴っておきたいが長くなるので記事を分けることにする。

 

 

実はぼくとて、いつもいつも上記のようなミス連発のゴミクズ人間であるわけではない。たまーに、たまーにはミスのない日だってある。その日はよくなったなあと自分を褒めてやりたいくらいの頻度ではあるが、ある。それを差し引いてもミスはあるがそうそう目立ったものではないという日もある。

今日ここまで酷かったのは、出勤前に脳内に降って湧いた疑問を、よせばいいのに増幅してしまったことにある。もっとも降って湧いてしまった時点で、人間というのは考えたことを容易に消せるものではない。消せるようなメンタルをしてなかったらこの人生はもう少しマシなものだったはずだ。

 

その発想とはすなわち、

西尾維新はぼくと同じくらいの年齢のとき何を書いていたか

である。

 

「やめておけよ。相手は世界でも一、ニを争うヒマラヤ山脈の一角だぞ。お前は砂場の盛り土みたいなものだぞ。どうして比較なんかできようぞ」

ぼくがぼくの友人ならすぐさまこう言うだろう。

だがぼくは残念ながらぼくで、友人ではなかったし、ぼくがぼくの言うことなんて聞くはずもなかった。

 

結論から言えばこの思考は絶望となってぼくの脳内の99.9%くらいを占め、そのせいでミス連発しやがったのである。

 

多少なりとも読書を趣味としたことのある夢見がちな男子高校生において、西尾維新の名を知らぬものはいるまい。

2000年に京都の二十歳としてデビューしその鬼神の如き速筆で奇人変人キャラを怒涛波濤の如く刊行し、作品はアニメ化され漫画原作も手がける、生きるレジェンドである。

などと適当なことを言うものの実際西尾維新が文壇において*3どの程度の地位にいるものなのかぼくには分からない。

ただ確実に言えることは、若くして世に出、仕事が早く、アイディアが尽きず、メディアミックス作品を世に送り出し、今なお新作を発表し続けている、売れっ子小説家である、ということだ。

多分。多分こう言って間違いないと思う。多分。雑すぎる説明だが間違ってはないと思う。

 

ぼくと西尾維新は年齢でいえば彼のほうが少し上に当たる。

どのくらい上かというと同じ小学校に少しのあいだだけ所属できるかなというくらいの年齢差だ。

 

さて、ぼくが彼の本を初めて手に取ったのは花も恥じらいラノベの美少女表紙に素直になれないお年頃の高校生頃。

はて最初は何で知ったのか、インターネットもつながっていない時代だし、適当な本屋で見つけただけでは買わなかったに違いないが、ともかくどこかで名前を見て、とりあえず少ないお小遣いからクビキリサイクルを購入したのだったかな。

あの衝撃は今でも覚えている、といえば格好がつくのだけれど、正直あんまり覚えていない。ただあの語り口、いーちゃんの語りというのは当時思春期にありがちな虚無主義に浸っていたぼくにとって劇薬だった。

もとから推理小説をよく読んでいたというのもある。ホームズは小学校の時にほぼほぼ網羅していた(ちょっと誇張が入る)から、高校時代は赤川次郎を乱読しながらアガサ・クリスティやらなんやらの方へ手を伸ばしていた。その過程でアシモフなども読んだかな。自己肯定感がなかったのでバイトはしてなかったから、足りないお小遣いからB○○K○FFで100円本を買い漁ったものだった。

まぁまぁ、それからぼくはイッキに西尾氏のファンになった。足りないお小遣いをこねくり回して新刊が出たら買うようになった。戯言シリーズは揃えたし君僕も買った。青春だったね。

高校生の時のぼくは文芸同好会に所属していてこちゃこちゃと推理小説*4を書いていたのだ。

文章について相談に乗ってくれる友人知人もいなかったし、文章の師匠と呼べるような友人知人もいなかったが、もし商業作家にそれを求めるなら下の通りになるだろうと考えたことはあった。

はやみねかおる=小説の師

西尾維新=言葉遊びの師

神林長平=SFの師

時雨沢恵一=世界観の師

彼らからは、それぞれ何かを得たような気がしていた。

……気がしていただけだったのかもしれないけれどね。

 

かもしれないのではなく、結局得た気でいただけだったのだろう。

今ぼくはこうして脳直で文章を吐き出すしかできないし、言葉遊びも嗜む程度だし、SFは頭が追いつかなかったし、挙句に死後の世界に思いを馳せる始末だ。

 

wikipediaによれば西尾氏の学歴は立命館大学政策科学部中退となっている。

立命館大学政策科学部がどのくらいすごいのか、ド田舎のF欄私立*5で大卒の肩書をもらっただけのような人間の知能では知る由もないが(調べろよという話ではあるが)、少なくとも西尾氏の頭脳が凡百のそれとは比較にならない性能であることは、このぼくでも分かる。

そうでなければこんな文章をこんな速さでこんなキャラクターを生み出し続けることなどできるはずもない。息を吐くように文字を吐き、息を吸うように文字を吸う、そういう人種であるに違いないのだ。

別に人間の格を学歴で測ろうなんていう気はさらさらないが*6、少なくとも人間の性能は、学歴が一つの指標になるだろう。効率良く勉強するとか、記憶するとか、導き出すとか、読み取るとか、そういう性能を炙り出す意味で、学歴というのは一定の物差しになりうる。勿論洞察力なんかは学校の成績だけでは測れないにせよ、ことものを憶えることとそれを引き出すことについて、学校の勉強というのは特化していると思う。

中退であるのは多分、勉学の途中で執筆の方が性に合っていることに気付いたとか、これで食っていける確信が持てたとか、そういう感じではなかろうか。元から入ることだけが目的だったのかもしれないが。

ここでひとつ、URLを引用しておく。

www.1101.com

まぁ検索してたら見かけたんですが。2014年なんですが。

語る内容が本当に本当に、頭のいい人のそれだ。頭のいい人というのは、ぼくが羨んで羨んで仕方ない人のことでもある。多分担当の人も頭いいんだろうなぁ…。

こういう人は、全部記憶している。ぼくみたいに外部記憶装置(要するにメモだ)を必要としていない。全部が全部頭の中にあって、スケジュール帳をただ整理と管理のために利用している。羨ましい。本当に羨ましい。こういう頭脳が貰えるなら喜んで命だって差し出したいくらいだ。

ぼくがネット回線越しに接している人の中にも、ここまでかどうかは定かではないが、こういう人は何人かいる。必要な情報を的確に瞬時に頭のなかから引っ張ってこれる人。そしてその情報を有機的に組み合わせられる人、或いは連鎖的に興味深いワードへと飛び石する人。いったいどういう頭の作りをしているんだろう。どう生まれついたらそんな風になれるんだろう。現代科学の進歩を待つしか無いのだろうか。

忘れてしまうアイディアは
忘れるべきアイディアだったと考えます。

なんて本当にシビれるワードではないか。

ぼくなんぞは大事なこともそうでないことも片っ端から忘れてしまって、覚えておける事のほうが少ないと言うのに。今すぐにこの脳みそを破棄してしまいたい。

ちなみにぼくの執筆時速はノッてる時で2000字/hが最高だった。速筆というのはタイプの速さではなくて、次に何を書くか、どんな単語を置くかをどれだけ瞬時に判断できるかという部分が大きいと思う。考えながら書くのではなく、書きながら考える。そこもまた、頭の良さだ。羨ましい。本当に。

 

そして4月が明日から始まるのに、転職活動は暗礁に乗り上げっぱなしだ。

ほぼ日手帳、買ってみようかなという気にさせられた。

一応、抜け出したいんですよ? パート。

でも正社員でフルタイムで働こうってときに、西尾維新と自分を比較して脳内に絶望が立ち込めるような人間がどんな職に就けますかって。それがぼくにはわからないし、誰も教えてくれない。でも誰もぼくの人生に責任なんて持ってくれないんだ。ぼくがぼく自身で責任を持つしか無いんだ。分かっていながら動かない、とんだクズ野郎だ。

 

 

今日の帰宅が12:45くらいで、その2時間後なら14:45から「やりタイム」のはずなんだけど、なんか15:00くらいからこの記事書き始めた記憶があるのよね。精神死んでたからね、仕方ないね。

そして今16:23なのよね。1時間半近くも書いてるね。

「やりタイム」は3時間を見てるから時間通りの終了なら17:45になって、あと1時間20分くらいあるのよね。

何しようかな。短いお話を書こうか。それとも晴れてはいないけど走りに行こうか。

ランニングは逃避だ。考えることからの、逃避。

 

*1:認知の歪みだと思う。

*2:認知の歪みであるが多分思われていることは間違いない

*3:この表現が適切かどうかは分からない

*4:と言っても掛け値なしに稚拙なものだった。これはこれで自分で気に入ってはいるけれど、人様にお見せできるようなものではない。ふと右京さんを思い出したがこれまた阿蘇山と泥団子のようなものだろう

*5:多分この文字列を見たあなたが想像するより遥かに劣悪な性質を持つそれである

*6:嘘である。やはり統計的に考えれば、良い家庭の人間は良い学校へ行くし、良い暮らしと良い人生を送る確率は高いと思う。増田でもたまに話題になるよネ。

ブログを開設した理由とその背景について

2017年3月30日

ブログを開設した理由とその背景について

 

基本的に脳みそが死んでいるので思い出した順番に綴ろう。

 

理由というよりは動機というべきか。

一日に、帰宅してから2時間後を開始時間としてだいたい3時間程度、ゲームから離れる時間を作ろうと決めた。

ゲームに没頭する日々に急激に恐怖を抱いてきたからだ。

だから適当に名前をつけるならば「なにか有意義なことをやりタイム」とでも言うべきものを設定することにした。

この日記もその一環だ。

ただ、この日記が有意義であるかどうかについては、自分自身では判断できない。名目上はそうなっているが、とにかくゲームに没頭しているときのあの虚無感から逃げ出したかったのだ。或いは虚無感を感じているということは、没頭してないということなのだろう。

没頭でなければ、依存と言い換えてもいい。依存症を治すには急に100%バッツリと断ち切るのではなく徐々に徐々にウェイトを減らしていくのだと聞いたことがある。それに則っていえばこの「やりタイム」の設定はゲーム依存を解消するのに効果があったりなかったりするのかもしれない。

 

とりあえず今日は読みたい本があるのでこれで時間が潰せるだろう。

試しにamazonからURLを張ってみる。

https://www.amazon.co.jp/この世の中を動かす暗黙のルール―人づきあいが苦手な人のための物語-岡田-尊司/dp/4344018621

図書館の特集コーナー『医療小説』のカテゴリに展示されていた。 この人は他にも専門的な本を色々書いているので、どこかで名前が頭に引っかかっていたのだろう。パラパラとめくれば目に飛び込んできたのは首吊りのシーン。思わずシンパシーを感じて狩りてきてしまった。

 

ここ数年、いや振り返ってみればもう10数年に渡ってだったかもしれないが、とにかくここ数年、片手の指で収まるか収まらないかの年月、ぼくは人類の最底辺から一段だけ上のランクでの生活をしてきた。

などというと普通に生きてる人間からは目くそ鼻くそだと言われるだろうし最底辺の人からも五十歩百歩だと言われるだろう。どちらかと言えば間違いなく後者に属する人間であるという確信はあるのだが、それを認めながらも受け入れるのが精神的に辛い。

ココらへんについては複雑過ぎて逆に分かりやすい名前がついた。

回避性人格障害というやつである。

生きるのが辛い。

 

 

そうそう、このブログ全般の文章はなるだけ推敲をしない。

なぜなら自分は後ろを振り返って感慨に浸るのが好きだからだ。だからずっとそれをしていたら執筆が進まない。小説でもそうだった。

というかまさにその「後ろを振り返って感慨に浸る」行為をブログで記事にしようとしている。

あのときはこんなことがあった、あのときはあんなことがあった、そのときこう思って、こうだったけどこうしたかった。そんなことをぽちぽちと思い出しながら書こうとしている。

これはアダルトチルドレンの治療*1におけるインナーチャイルドセラピーに関するそれに近いように自分には思われる。

アダルトチルドレン - Wikipedia

ちなみに分類上は、自分の性質はロストワンに近い。今でも自分自身というものが存在しないような気がする。

最近は少し改善したかな。自分がいて、相手がいて、自分の存在や思考や発言を相手に対して主張しても良いのだという思いがようやく、ここ1年くらいで芽生えてきた。遅すぎるだろう? ぼくもそう思う。だから運の悪いことに、人生が上手く行ってない。

親の名誉のために言っておくが、母親は別に悪い人間じゃあなかった。父親だって悪い人間じゃあなかった。でもまぁ、紆余曲折あったのは、ぼくの運が悪かったんだろう。これについてはまた別に綴ろう。メンターがいれば人生変わったのかもしれない。

 

まとめよう。

ぼくは今の人生が辛くて辛くて気を紛らわせていたのに、気を紛らわすための逃避行動すらも辛くなった。

逃避行動も辛いし、人生に直面するのも辛い。そうして取ったのはまた別の逃避行動だったというわけだ。

これから真人間に戻るのは、奇蹟でも起きない限りもう無理だろう。*2

でもせめてほんのちょっとだけ真人間寄りに人生を送りたいので、真人間っぽいことへ逃避することにしたのだ。

 

 

明日のぼくへ。

考えていたことを文字にするのは結構楽しいね。久しぶりの感覚だと思うよ。

でも今日は長文を書きすぎたから明日からもう燃え尽きないように気をつけて。

*1:「治療」? アダルトチルドレンは正確には病理ではない。病理ではないが、推敲はしないとさっき言ったばかりだ。

*2:認知の歪みである

開設した

2017年3月30日

ブログを開設した。

 

我ながらセンスがあるとは言い難いタイトルと説明。

こういうものはだいたいダルくなって、内容がスカスカになってやめてまうので今回もそうであると予想しつつそうならないことを祈ろう。

日記に関していえば高校時代はなぜかだらだらと続いていたが、その内容はポケモンの育成日記とかクラスの好きだった女子がどうこうとかそんな低俗なものばかりだったように思う。

男子高校生というのはえてして低俗なものであるが、ぼくの場合は一般よりさらに低俗だったように思われる。そうでなかったら今こんな生活はしていまい。