遺書手紙日記

覚書、或いはTLを汚さないための長文

早くも挫折しそうである 或いはぼくと西尾維新

2017年3月31日

早くも挫折しそうである

 

はてブは記事内ジャンプはないのだろうか。

調べなくては。

 

他所様のブログを見ているとその華々しさ、有意義さ、個性、情報量にくらくらする。圧倒される。悲しくなる。苦しくなる。生きるのが辛い。

自分にはそのような熱意もなければ技術もないし才能もなければ性能もないのだ。考えれば考えるほど悲しくなってくる。

甚だ低スペックな自分が恨めしい。これまでも、そしてこれからもずっと、この低スペックを抱えて生きていかねばならないのだ。*1

 

今日も何度も仕事をミスした。貼り付けるべきシールを間違えた。商品の値段を間違えた。商品コードを取り違えた。

こんな無能をフォローする人たちも大変だろう。いっそ仕事をやめてしまいたいがこれをやめてしまってはPCも動かないしネットにもつながらないしゲームもできないしコーヒーを飲むこともできない。百合漫画だって買えない。

迷惑だ邪魔だ使えねえ奴だと思われながら*2自分の無能を心のなかで詫びながら職場を辞すのだ。

この世はあまりに悲しい。

 

昨日の本は読み終えた。

面白かったと言えるだろう。

作中で出てきたキーワードについて備忘録的に綴っておきたいが長くなるので記事を分けることにする。

 

 

実はぼくとて、いつもいつも上記のようなミス連発のゴミクズ人間であるわけではない。たまーに、たまーにはミスのない日だってある。その日はよくなったなあと自分を褒めてやりたいくらいの頻度ではあるが、ある。それを差し引いてもミスはあるがそうそう目立ったものではないという日もある。

今日ここまで酷かったのは、出勤前に脳内に降って湧いた疑問を、よせばいいのに増幅してしまったことにある。もっとも降って湧いてしまった時点で、人間というのは考えたことを容易に消せるものではない。消せるようなメンタルをしてなかったらこの人生はもう少しマシなものだったはずだ。

 

その発想とはすなわち、

西尾維新はぼくと同じくらいの年齢のとき何を書いていたか

である。

 

「やめておけよ。相手は世界でも一、ニを争うヒマラヤ山脈の一角だぞ。お前は砂場の盛り土みたいなものだぞ。どうして比較なんかできようぞ」

ぼくがぼくの友人ならすぐさまこう言うだろう。

だがぼくは残念ながらぼくで、友人ではなかったし、ぼくがぼくの言うことなんて聞くはずもなかった。

 

結論から言えばこの思考は絶望となってぼくの脳内の99.9%くらいを占め、そのせいでミス連発しやがったのである。

 

多少なりとも読書を趣味としたことのある夢見がちな男子高校生において、西尾維新の名を知らぬものはいるまい。

2000年に京都の二十歳としてデビューしその鬼神の如き速筆で奇人変人キャラを怒涛波濤の如く刊行し、作品はアニメ化され漫画原作も手がける、生きるレジェンドである。

などと適当なことを言うものの実際西尾維新が文壇において*3どの程度の地位にいるものなのかぼくには分からない。

ただ確実に言えることは、若くして世に出、仕事が早く、アイディアが尽きず、メディアミックス作品を世に送り出し、今なお新作を発表し続けている、売れっ子小説家である、ということだ。

多分。多分こう言って間違いないと思う。多分。雑すぎる説明だが間違ってはないと思う。

 

ぼくと西尾維新は年齢でいえば彼のほうが少し上に当たる。

どのくらい上かというと同じ小学校に少しのあいだだけ所属できるかなというくらいの年齢差だ。

 

さて、ぼくが彼の本を初めて手に取ったのは花も恥じらいラノベの美少女表紙に素直になれないお年頃の高校生頃。

はて最初は何で知ったのか、インターネットもつながっていない時代だし、適当な本屋で見つけただけでは買わなかったに違いないが、ともかくどこかで名前を見て、とりあえず少ないお小遣いからクビキリサイクルを購入したのだったかな。

あの衝撃は今でも覚えている、といえば格好がつくのだけれど、正直あんまり覚えていない。ただあの語り口、いーちゃんの語りというのは当時思春期にありがちな虚無主義に浸っていたぼくにとって劇薬だった。

もとから推理小説をよく読んでいたというのもある。ホームズは小学校の時にほぼほぼ網羅していた(ちょっと誇張が入る)から、高校時代は赤川次郎を乱読しながらアガサ・クリスティやらなんやらの方へ手を伸ばしていた。その過程でアシモフなども読んだかな。自己肯定感がなかったのでバイトはしてなかったから、足りないお小遣いからB○○K○FFで100円本を買い漁ったものだった。

まぁまぁ、それからぼくはイッキに西尾氏のファンになった。足りないお小遣いをこねくり回して新刊が出たら買うようになった。戯言シリーズは揃えたし君僕も買った。青春だったね。

高校生の時のぼくは文芸同好会に所属していてこちゃこちゃと推理小説*4を書いていたのだ。

文章について相談に乗ってくれる友人知人もいなかったし、文章の師匠と呼べるような友人知人もいなかったが、もし商業作家にそれを求めるなら下の通りになるだろうと考えたことはあった。

はやみねかおる=小説の師

西尾維新=言葉遊びの師

神林長平=SFの師

時雨沢恵一=世界観の師

彼らからは、それぞれ何かを得たような気がしていた。

……気がしていただけだったのかもしれないけれどね。

 

かもしれないのではなく、結局得た気でいただけだったのだろう。

今ぼくはこうして脳直で文章を吐き出すしかできないし、言葉遊びも嗜む程度だし、SFは頭が追いつかなかったし、挙句に死後の世界に思いを馳せる始末だ。

 

wikipediaによれば西尾氏の学歴は立命館大学政策科学部中退となっている。

立命館大学政策科学部がどのくらいすごいのか、ド田舎のF欄私立*5で大卒の肩書をもらっただけのような人間の知能では知る由もないが(調べろよという話ではあるが)、少なくとも西尾氏の頭脳が凡百のそれとは比較にならない性能であることは、このぼくでも分かる。

そうでなければこんな文章をこんな速さでこんなキャラクターを生み出し続けることなどできるはずもない。息を吐くように文字を吐き、息を吸うように文字を吸う、そういう人種であるに違いないのだ。

別に人間の格を学歴で測ろうなんていう気はさらさらないが*6、少なくとも人間の性能は、学歴が一つの指標になるだろう。効率良く勉強するとか、記憶するとか、導き出すとか、読み取るとか、そういう性能を炙り出す意味で、学歴というのは一定の物差しになりうる。勿論洞察力なんかは学校の成績だけでは測れないにせよ、ことものを憶えることとそれを引き出すことについて、学校の勉強というのは特化していると思う。

中退であるのは多分、勉学の途中で執筆の方が性に合っていることに気付いたとか、これで食っていける確信が持てたとか、そういう感じではなかろうか。元から入ることだけが目的だったのかもしれないが。

ここでひとつ、URLを引用しておく。

www.1101.com

まぁ検索してたら見かけたんですが。2014年なんですが。

語る内容が本当に本当に、頭のいい人のそれだ。頭のいい人というのは、ぼくが羨んで羨んで仕方ない人のことでもある。多分担当の人も頭いいんだろうなぁ…。

こういう人は、全部記憶している。ぼくみたいに外部記憶装置(要するにメモだ)を必要としていない。全部が全部頭の中にあって、スケジュール帳をただ整理と管理のために利用している。羨ましい。本当に羨ましい。こういう頭脳が貰えるなら喜んで命だって差し出したいくらいだ。

ぼくがネット回線越しに接している人の中にも、ここまでかどうかは定かではないが、こういう人は何人かいる。必要な情報を的確に瞬時に頭のなかから引っ張ってこれる人。そしてその情報を有機的に組み合わせられる人、或いは連鎖的に興味深いワードへと飛び石する人。いったいどういう頭の作りをしているんだろう。どう生まれついたらそんな風になれるんだろう。現代科学の進歩を待つしか無いのだろうか。

忘れてしまうアイディアは
忘れるべきアイディアだったと考えます。

なんて本当にシビれるワードではないか。

ぼくなんぞは大事なこともそうでないことも片っ端から忘れてしまって、覚えておける事のほうが少ないと言うのに。今すぐにこの脳みそを破棄してしまいたい。

ちなみにぼくの執筆時速はノッてる時で2000字/hが最高だった。速筆というのはタイプの速さではなくて、次に何を書くか、どんな単語を置くかをどれだけ瞬時に判断できるかという部分が大きいと思う。考えながら書くのではなく、書きながら考える。そこもまた、頭の良さだ。羨ましい。本当に。

 

そして4月が明日から始まるのに、転職活動は暗礁に乗り上げっぱなしだ。

ほぼ日手帳、買ってみようかなという気にさせられた。

一応、抜け出したいんですよ? パート。

でも正社員でフルタイムで働こうってときに、西尾維新と自分を比較して脳内に絶望が立ち込めるような人間がどんな職に就けますかって。それがぼくにはわからないし、誰も教えてくれない。でも誰もぼくの人生に責任なんて持ってくれないんだ。ぼくがぼく自身で責任を持つしか無いんだ。分かっていながら動かない、とんだクズ野郎だ。

 

 

今日の帰宅が12:45くらいで、その2時間後なら14:45から「やりタイム」のはずなんだけど、なんか15:00くらいからこの記事書き始めた記憶があるのよね。精神死んでたからね、仕方ないね。

そして今16:23なのよね。1時間半近くも書いてるね。

「やりタイム」は3時間を見てるから時間通りの終了なら17:45になって、あと1時間20分くらいあるのよね。

何しようかな。短いお話を書こうか。それとも晴れてはいないけど走りに行こうか。

ランニングは逃避だ。考えることからの、逃避。

 

*1:認知の歪みだと思う。

*2:認知の歪みであるが多分思われていることは間違いない

*3:この表現が適切かどうかは分からない

*4:と言っても掛け値なしに稚拙なものだった。これはこれで自分で気に入ってはいるけれど、人様にお見せできるようなものではない。ふと右京さんを思い出したがこれまた阿蘇山と泥団子のようなものだろう

*5:多分この文字列を見たあなたが想像するより遥かに劣悪な性質を持つそれである

*6:嘘である。やはり統計的に考えれば、良い家庭の人間は良い学校へ行くし、良い暮らしと良い人生を送る確率は高いと思う。増田でもたまに話題になるよネ。