遺書手紙日記

覚書、或いはTLを汚さないための長文

質も量もまるで児戯 或いは高等遊民の話

こんなご時世だから、ネットを歩けばブログに当たる。

他所様のブログを見る。

すると内容の充実さや質の良さに感動する。

たまに意味深なことを書いているような浅いことを書いているような人もいるけれど、その発想力は感心に値するものだ。

 

比べて、ぼくのブログはどうだろう。

ひたすら日々がつらいとか仕事がつらいとか生きるのがつらいとかそんなことを書きなぐってばかりで、電子のゴミを増やしているばかりじゃないか。

なら書かなきゃいいのかというと、それはそれで寂しいので書くのはあんまりやめたくない。

もっとも、その言葉にも説得力があるかというと怪しいものだ。

4月中の記事が20あるのに、5月中の記事はその半分の10しかない。1日1記事も書いてないのに、それが更に減速した形になる。これではアフィリエイトやらブログ収入やらには程遠いだろう。もっともそれを当て込んで開設したわけでもないのだが。当て込んでいたわけではなくても、その水準に満たないような質というのは火を見るより明らかだから、そういう意味では凹む。

ならば質と量を充実させる努力をしろというのが正道だが、それにしたって努力とはどんなことをすればいいのだろう。わからない。

こんなネットの片隅に書き捨ててあるブログなんて誰が当てにするものか。……まぁやるとしたら別のブログを開設するだろう。ここには愚痴を書きすぎた。

しかし、小説家になると言っていたワリには、文章を書いてお金をもらうことに対する抵抗もあったりして、よくわからない。いや、これは多分、自分ごときの能力でお金をもらうことに対する抵抗なのだろうと思う。まず自分というものに対して自信を持たなくては、なんにせよどうしようもないのだ。

 

職場でものすごく些細な行き違いがあって、こちらの落ち度なのか向こうの落ち度なのかわからなくて、そのことで頭がオーバーヒートしている。

向こうはきちんと伝票を残しているだろうから、十中八九こちらの落ち度なのだろう。だけどぼくにはその記憶がない。きちんとメモしておけば良かったと、そのときもきちんとメモしておこうと、思っていたが後の祭り。とにかくすべてに嫌になる。忘れている自分にも、メモしなかった自分にも、トラブルに立ち向かえない自分にも、全てが全てにだ。

というか、責任者に直接確認しろと言われたが、その責任者がどんな人物か知らないので、捕まえようがない。喋ってる間に聞いておけよという話だが、それすらも忘れている始末だ。

この脳みその欠陥、どうすればいいのだろうか。

精神科に行ってみても別段問題があるわけではないと言われるし、それなのにこんなに生きづらいのはなぜなのか。なぜみんな平気な顔をして生きていられるのだろう。甘えか、甘えなのか。みんなこんなに死にたい気分をひた隠しにしているのか。だとしても疑問が残る。死にたい気分をひた隠しにしたり耐え忍んだりするその差はどこから発生したのだろう。わからない。

 

 

今日見たとあるブログで、こんなくだりがあった。

(多分検索したらヒットするかもしれない)

不満はあるけど不安のない人生か

不安はあるけど不満のない人生か 

人生は、後者のほうがいい

サラリーマンをしながら生きていく生活は、不満はあっても不安はないだろう

不満というのは不完全燃焼しかできないことだ

対して、不安というのは完全燃焼の原料となる

自営業者は明日の生活を不安に思っても、不満を漏らすことはないだろう

なぜならばそれをしている間に自身の売上を少しでも伸ばすことを考えるからだ

 ざっつ~な意訳なので間違ってるかもしれないが、抱いたいこんな感じ。

でも、これを言えるのって学歴があって頭がいい人だけだよねーって思う。

大多数の人間が不満を抱くのは、自分の境遇にじゃない。そうでもないか、境遇に不満を抱く者もいるだろう。しかし、考えを突き詰めれば、結局は自分の能力に対して不満を抱かざるを得ないのだ。それは、自分の現状を変えられないという能力の不足に対してであり、自身の理想を追い求めるに足りなかった才能の不足に対してであり、自身の思い描いた目標に直線的に向かえなかった努力の不足に対してである。

自分のやりたいことを見つけられた者が幸福なのではない。それを叶えられる能力を持った者こそが幸福なのだ。

 

それで言えば、ニートのまま生きていくとか、低所得者のまま生きていくとか、断捨離とか、そういう生き方は、結局のところ教養のある優秀な人間にしかできないものだ。どこに書いてあった文章だったか忘れたが、あるいはよく言われていることかもしれないが、「清貧に生きるには、高等な教育を受けなくてはならない」ということだ。何が大事で何が大事でないか、無から有を取り出すことができるか、そういうことができる人間が、清貧な生き方をすることができる。身なりは貧しくとも心は清いとはそういうことだ。そしてそういう人間は、頭の中が豊かなのだ。だから自分の外に多くのものを必要としない。今の日本では高等な教育を受けるには多額の資本が必要で、つまりそういうことだ。明治やそこらの文豪たちも、高学歴なのにろくでもない生活してる人がいっぱいいたよね。昔で言う高等遊民みたいなものなのだろう。

こういうことに頭を巡らせているときだけは少しだけ気分がマシになる。

そして今我に返ったとき、また頭の痛みが戻ってくる。

 

ああもうこんな時間だ。

寝なくてはならない。明日も仕事だ。