遺書手紙日記

覚書、或いはTLを汚さないための長文

ちょっと日記サボりすぎという話 或いは高度情報化社会の話

5月3日 晴れ

本日の帰宅は1時、これを書き始めたのは3時30分。

ダメダメである。

 

しかも前回の日記が30日ときている。

ダメダメである。

 

5月1日はお休みだった。

ええと何してたっけな。

何か色々していたと思うが、思い出せない……。のんべんだらりと過ごしているとこういう日々が多くなってしまうので本当は良くないのだ。確か叔母上殿に色々言いつけられて手伝っていたと思うのだが。

ああそうだ、自転車小屋に置くための倉庫を作っていたんだった。

倉庫といってもそこまで大仰なものではない。ホームセンターに売っててプラスドライバーだけで組み立てられる簡素な安物だ。庭いじりの道具やらをそこに入れておくために叔母上殿が欲しがっていたのをこないだ買ってきたので、それを組み立てていたのである。

これがまたなんというか、まぁ安かろう悪かろうというべきか、割と材質はペラペラだし戸はきちんと閉まらないし、なんともお粗末な代物で。もっとも戸はきちんとしまらなくても鍵はきちんとしまってくれるし(それはそれでどうなのかという気はするが)、別段貴重品などを入れるものでもないので、これでも問題ないといえば問題ないのだけれど。

でもそれが午前中の話なんだよなー。

午後からは本当にダラダラしてたんだと思うな。

 

最近物凄く眠気が取れないのと関係あるのかもしれない。ないかもしれない。

 

さて、昨日の話……本来ならこの日記を書かなきゃいけなかったところ。

実は昨日は家族三人と母の会社の社長殿との四人で外食に行っていた。

しゃぶしゃぶ食べ放題である。

しゃぶしゃぶ食べ放題である。

大事なことなので。

事前にその予定を言われていたことを忘れていたので、いつもどおりの時間に日記を書き出そうとしたら「これから出かけるよ」と言われてしまい、やむなく日記を放置して出かけてしまったのだ。

それから三時間ほど、車で少し行ったところに新しくオープンした食べ放題の店で飲んだり食ったりしたという次第である。

まあまあ美味しかった……かな……? あまり上等な舌を持たないので、だいたいの場合は食べられれば美味しいとぼくなんかは言ってしまう。お寿司も注文できるメニューもあったのだが今回はしゃぶしゃぶだけということだった。しかし色々なタレやら野菜やら香辛料の類のトッピングもあり、母などは大はしゃぎで様々な混ぜものを試していた。あんた何歳だと問いたくなるはしゃぎようだった。まあ…普段は我慢することの方が多いだろうし、こういうときくらいはしゃいでもらっても全然構わないのだけれど。あとアイスもあったね。おいしかった。

そんなこんなで楽しみはしたのだけれど、途中からやたらめったら眠気が襲ってきて、食べるだけで精一杯だったのは惜しかった。元々あまり喋る方ではないが、それにしたって場の雰囲気というものもあるのに。腹の皮張れば目の皮たるむ…という言葉を思い出す。ただこの場合それだけではないと思う。頭が突っ張るような頭痛ってなんなんだろうね。

 

そういうわけで、帰宅してから消化する予定だったこの日記含む色々な用事は、すべて睡魔によって駆逐された、というわけだった。なにせお風呂すら入らずに居間で眠り込んでしまっていたのだから。おかげで今、だいぶ頭が痒い*1

帰宅は8時頃でそれからずっと寝ていたはずなのに、朝起きたときには全然寝た気がしなかったのもかなりのマイナスポイントだった。居間で寝てしまったときでも体が痛い時と痛くない時があるのはいったいなぜなのか、これがわからない。

ともかく質のいい睡眠がしたい。ドラえもんー質の良い睡眠を取れる道具出してよ。

 

 

ここのところ仕事中はずっと将来どうするかを暗澹たる気持ちになりながら考えている。ずっとこの仕事を続けるのは、それこそ生き地獄のようでもあり、かといって別のどこかへ行ってまともに社会生活を送れるかというとそんな自信もなく。

今の世の中に生まれたことがそもそも間違いだったんだろうなあというところまで思考が行き着く。

個人でなんでもできる時代、才能と機会さえあればのしあがれる時代において、真面目さなんてマイナス気質の一つでしか無い。生き馬の目を抜くように生きていかなければいけない時代なのだ。抜け駆けて出し抜いて陥れて、どうやってでも他人を蹴落とさなきゃいけない時代。戦国なんていうたとえすら生ぬるい。今の時代はもうジャングルだよ。サバンナだ。ゴリラにならなきゃいけないんだ。

でもそういうときでも、残機って概念がある。セーフティネットより更に上位の概念。ある程度間違ってもどうにかなるってケース。つまり親が金持ってる場合、実家に余裕がある場合、あとは都会にいる場合。

とにかく、なんていうかさ。今の時代って資本主義が露骨に表面化してるんだよね。富める者はますます富み、貧しいものはますます貧しくなる。これはどうやらマタイ伝にある言葉らしいね。

ググるとこのフレーズばかりが抜き出されているから(そして言い回しにも差異が見られるから)、こういうときは言葉が独り歩きしている可能性が高いので、こういう場合は、前後の文脈もきちんと調べておくのがアカデミックなムーブであるように思う。……めんどくさいからやらないけど。聖書は、多分全部捨てちゃったんじゃないかなぁ、大学がミッション系だったから何種類か持ってたんだけどねえ。一冊くらいはどこかに持っていた気もするけど。

とにかくそういうことだ。何するにしたって、お金の余裕はすべての余裕に変換できる。全く後がない貧乏人とはまるで環境が違う。体の余裕、心の余裕、頭の余裕、そして時間の余裕までも、お金さえあれば解決できる。世の中金だ。金金金金。

ああ、自分で言ってても思うよ、これはとてもさもしい考え方だ。でも現実なんだからしょうがないじゃない。

そして金があればあるほど、スペックの高い人間を作りやすくなる。作れる確率が上がる。そうすると、今のIT社会はすごいぞ、有能な人間1人の頭脳で無能な労働者100人分の稼ぎだって余裕で上回ってしまうんだから。

このIT社会ってのが、格差社会に拍車をかけていると思うんだな。インターネットのお陰で、一人の人間が関係できる世界が物凄く広くなった。そして、社会全体が高速化した。さらに人と人、場所と場所、物と物の距離も縮まった。そうすると才能がある人間はその変化を乗りこなすし、そうでない人間はその変化についていけなくなる。昔はどうにかこうにかコツコツ努力して付いていくことが許されていた非才者も、社会の高速化と高度化に対応できなくなってしまう。中央値はそのままに、上下の幅がずわりと広がる。

こういう考え方をするとき、一人用の縄跳びと大縄跳びの2本の縄をイメージする。両方を横にぴんと張って、その紐を上下に揺らす。すると長さが短い一人用の縄跳びのほうが、多分上下の振れ幅が小さくなるはずだ。大縄跳びの縄みたく、長ければ長いほど上下の振れ幅は大きくなる。世界が左右に広がるということは、上下に広がることでもあるのだなあとこんな適当な妄想にふけったりする。

とにかく、この世界は物凄く便利になって、頭のいい人にとっては才覚を現しやすい世界になった。それは確かだと思う。昔は時間的地理的な障害のせいで100ある才覚が40くらいまでしか発揮できなかったのだとしたら、今は200にも300にもできる時代になっているだろう。いや言いすぎかもしれないが。いや言いすぎじゃないかもしれないな。1+1が10にも100にもなる時代だから100が200や300になったっておかしくないよな。

でもなぁ。じゃあそれに乗り切れなかった人たちは、どうすんだよって話で。もう、安価な労働力として使い潰されるか、来世に期待するしかないんじゃないかなって話で。

 

はぁ。つらいなぁ。

人間になりたかった。

3206文字

*1:基本的に毎日お風呂に入りたい人種