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遺書手紙日記

覚書、或いはTLを汚さないための長文

寒い 或いは高文連で入選した時の話

4月11日 雨

寒い。

止みそうもない雨がしとしと降っている。

耳をすませば小さな雨粒がものにぶつかって弾ける音がする。アスファルトの小さな水たまりが視覚から雨の強さを伝えてくる。そう酷くはない、けれど止む気配もない、雨。

どうでもいいけどしとしとって擬音を初めて考えた人はいったい何を思って雨に対して「しとしと」なんて文字を嵌めたんだろうか。知ってれば何となく分かるけど、知らなきゃ分からないよねこんなの。

もっとも、文字や単語や言葉なんていうのは、知ってれば分かるけど知らなきゃ分からないものばっかりなのだけど。

自分がとある単語をどこで初めて聞いてどこで意味を知ったかなんて、よほど特別な単語でなきゃ覚えちゃいないよ。

それともそれはぼくの記憶力が悪いだけで、人によってはこの単語はどこで知った、あの単語はどこどこで学んだ、なんて逐一記憶できていたりするのだろうか。だとしたらそれはとても羨ましいことだ。

比較的最近知った単語に「碩学」というのがある。待ってくれ、バカにしないでくれ。いやしてもいいや。事実、割と最近まで知らなかったんだから。でも言うだろ、無知が罪なのではない、知ろうとしないことが罪なのだって。やっぱぼく罪人だわ。

で、この単語、脳内ではつい「けんがく」と読んでしまうのだけど賢明な読者諸兄諸姉は当然ながらこの単語の読み方が「せきがく」であることを知っているだろう。意味は「学問が広く深い人」らしいよ。衒学や哲学みたいな何かの学問の名前ではなく、人物の形容を以て人物を表現する単語なわけだね。こういう単語をなんと言ったかな…確か専門用語があったはずなんだけど、覚えてないな。ランドセルと言って小学生を言い表すようなアレだ、つまり。

ぼくはこいつをFGOのシナリオのテキストで見たわけだが、一度意識してみると案外ほかのところでも目にする機会があると来たもんだ。もちろんFGOとは全然違うところでね。これは果たして偶然の一致だろうか、単なるシンクロニシティだろうか。そうだというのはロマンチックに過ぎるだろうし、そうじゃないというのはいささか現実を見ていない気がする。そこでぼくはこう考えた――「自分がこの単語を認識したことによって、単語を抽出する能力がついたのだ」とね。

これなら覚えたての単語をしばしば目にしてハッとすることに、偶然以外の理屈がつく。本当は実は、これまで何度も見かけていたものを、それと認識できていなかったのだということだ。テキストの森の中、文字の草叢の中に、隠れていた碩学という名前の植物を見分けられるようになった、ということだね。

……まぁそういう解釈を愉快犯的にしてみたところで、それまでその単語を見逃していた暗愚を晒してしまう結果になるというのは、なんというか、墓穴を掘る行為のような気もするけど。

ともあれ、こうして知らない単語を新しく知るというのはいつになっても楽しいものだ。むしろ最近になってようやく楽しくなったとも言えるかな。専門用語でない知らない単語、見た目から意味も読み方も想像できない単語なんて、なかなかないものね。でも世の中にはそれこそ無限に単語があるからなぁ。それらを無数のネットワークで繋いで、自由自在に引き出せるような能力があったらどんなに楽しいだろうなぁ。それが文章を書くってことなんだよね。

そういう意味では、谷川俊太郎なんか流石だよね。あの単語の並びはちょっとやそっとじゃ出てこない。と思う。押しも押されもせぬ詩の大家という感じがするよ。

 

詩歌(俳句・短歌・詩)については、ぼくも多少齧ったことがある。高校時代、ぼくの輝かしい高校時代に、文芸同好会でノルマとして課されていたからね。確か俳句なら7句、短歌なら5首、詩はいくつだったかな…一つか二つか、そのくらいだった。そして小説や評論やエッセイは自由提出。ぼくはたいてい短歌と俳句と詩から一つ二つを投稿してから、それとは別に短い推理小説を投稿していた。まぁ、拙いものだったけどね。紙面も限られていたし…というのは言い訳だけれど。

ぼくが入った当時の文芸同好会は顧問が現国の先生で、活動の時間を使って原稿用紙の使い方や、俳句の決まり、短歌の決まり、そういうものをきちんとレクチャーしてくれた。お陰で少なくともぼくは、俳句や短歌を作ることの楽しさについて目覚めたってわけだ。

今考えると色々なものが拙いなと思うけれど、それでも当時の自分の短歌や俳句や詩は、好きなものが多いよ。感性という意味では、熱意という意味では、やっぱり当時は瑞々しいものがあったなと思う。それと、ものによっては今でもきちんと思い出せるんだよね、どういう思考を経てそういう表現にしたかっていう作品の経緯みたいなものがさ。ひょっとするとこれがぼくの一番向いてたことで、もっと夢中になれていたらひょっとしたかもしれないなんて夢もないわけじゃない。夢は飽くまで夢だったけれどね。上には上が、どこにだっているものさ。

 

そういえば学歴というのを初めて意識したのは、高文連*1の、文芸コンクール、かな、のときだったね。

自分なりにがんばって書いた短い小説で『入選』って通知をもらったのは、あれは大学のAO入試格通知と同時だったけれど、前者のほうが遥かに嬉しかった。自分のやったことを認められたような気がした。

その授賞式というか、まぁ受賞者顔合わせ会みたいなのがあったんだけどさ、入選って端っこの端っこなのよね、受賞位置的にはさ。その上にいっぱい、優秀賞とか奨励賞とかいるのさ。

ぼくが当時通っていた高校はお世辞にも偏差値が高いとは言えない…というかまぁかなり低めだったね、だったんだけど、そんでその場にはさ、地元ではそれなりに名の通った、いわゆるイイトコの奴らがいっぱいいるのさ。優秀賞を取ったのは確か県下トップの偏差値の学校のやつだったかな。男子ね。そんで受賞のスピーチとか、受賞者同士で交流を深めてくださいとか言って雑談もしたんだけどさ、みんな話がうまいの。そんで積極性もあるの。ああ、こういう人たちが賢いってやつなんだな、って思っちゃったよね。急に自分が場違いみたいに思えちゃった。思えばその時から、卑屈な性格の芽を持ってたんだろうな。向こうさんがそんなことを気にしてたかどうかなんて分からないのにね、勝手に凹んでしまったんだ。

その優秀賞をもらったやつの作品は、後で読んでみたらとても上手だった。不可思議な話だったけど、なるほど優秀賞を取るだけあるなって思ったよ。でも笑っちゃったのは、そこに登場してた人物の口調が哀川潤そっくりだったってことかな。君もハマってたんだな、って勝手にシンパシーを覚えちゃったね。ぼくも推理小説の最終話に似たような人物を出してしまってたから。

ライトノベル研究所のことを教えてもらったのはその時だったなぁ。その最優秀賞君が手書きのURLをみんなに見せて、「こういうサイトが有るんです!」って。なんというか、当時はまだインターネットとか全然身近じゃなかったから、利用してはいたけど電話回線だったし、そういうところへ接続するっていうこと自体が特別な感じがしたね。まぁ、検索で一発で出たんだけど。それからしばらくあっちの掲示板に書き込んだりしてたけど、結局作品は投稿しなかったな。チキンだったからね。

最優秀賞の彼は今どうしているだろう。名前も聞いたはずだけど忘れてしまった。いい大学に行っていい社会人になっているだろうか。ぼくみたいに落ちこぼれてやしないだろうか。もしかするとデビューしてたりするのかな。どうかな。それとも趣味で書き続けてるのかな。それともいっときのはしかみたいにすぐにやめてしまっているかな。当時あそこに集った面々の中でもう創作に囚われている人間がぼくだけだとしたら、それはそれでとても滑稽だと思う。フフってなるね。そうだとしたら、面白い。笑える。まぁ、神のみぞ知ることだけれど。

余談だけど、その受賞者同士の交流って、互いがどんな作品を書いたか知らないままで始まったんだぜ。ぼくは思ったね、おいおいお互い知らない者同士でフックもないのに話しろってのかとね。まぁ、普通は知らない者同士だからこれから知ろうって話なんだけどさ。自己紹介と同時にどういう話を書いたかも紹介したらどうかな、って提案を口に出せたら良かったのかな、って今でもちょっと思う。

まぁもう10年以上も前の話だね。10年一昔という言に則って言えば、まさしく昔話さ。

 

 

さて。

こんな天気では外に走りに行けるわけもなく、しょうがない、今日のやりタイムは室内でできることから選ばなきゃいけない。

いや、別に傘差して歩きに行ってもいいんだけどね。前にやったことあるしね。でも寒いんだなこれが。

書き始めたのがほぼ3時ちょうど。現在3600文字で4時17分。

昨夜は友人にリクエストしたSSを受け取ってそれについて語り合っていたから、寝たのが2時近かったんだよね。なのでとても眠い。

でもそうやって文章について語り合うのは、とても楽しい。ここをこうしたら、とか、ここがいいね、とか語るのがとても大好きだ。なのでつい、今日は文章に関する長話をしてしまった。

一時期は綺麗な文章とか美しい表現とか技巧を駆使した言い回しとかに傾倒した時期もあったけど、今はもう、熱意さえ伝わってくる文章なら、多少作法が崩れててもいいじゃないと思いつつある。小学校で野球部だったときによく言われたのが、「コントロールは練習でどうにかなるが、球速はもって生まれたものだ」って言葉だったんだよね。

当時はよくわからなかったけど、今なら意味がわかる。形を整えるのは練習でできるんだ。ボールを同じところへ投げるには、同じフォームで同じポイントで球をリリースすればいい。これは投げ込みで誰でも同じようにできるようになる。まぁきちんと投げ分けるのは難しいけど。でも、球速っていうのは、言ってみれば持って生まれた筋肉をどこまで駆使できるかってことだ。肉体改造によって上がることもまぁあるだろうけど、小学生に桑田真澄ばりの筋トレを強いるわけにもいかないしね。練習でつきやすいのがコントロールか球速かって言ったら、前者だと思う。……まぁ、上の言葉が本当かどうかっていうのも、よくわからないんだけどね。その方面のプロじゃないし研究者でもないから。(逃げ道)

なのでまぁ、コントロールと球速の関係性が、熱意と修辞技法にも言えるんじゃないかなって。そういうことをよく思う。

それは短い話を書く時の話で、それとは別に、長く多く書き続けるには書くことを習慣にするのが大事だっていうのも、今は実感としてある気がする。

結局書き続けなきゃだめなんだよね。毎日ちょっとずつでもやっていったほうがいい。きっといい。絶対いい。

 

 

昨日は結局6時半ころまでうだうだとして、母が帰ってきて、それから7時頃に走りに行ったよ。往復で3キロくらいかな。40分くらいかかったかな。日がすっかり暮れて、というか月が綺麗だったくらいの時間だったからだいぶ寒かったね。でも走るときの筋肉への刺激が気持ちいいなと思えたのは驚きだった。びっくりだ。

弟からもランニングは続けたほうがいいよと太鼓判を押されたので、なるだけ続けていきたいなと思う。弟は元柔道選手で大学もそれで進学しただけあって、体の造りや扱いにも詳しいんだ。しかも折に触れてその知識を他人に伝えられるくらいに身についている。対してぼくはといえば、記憶にあるはずの知識すらうまく思い出せなくて他人に伝えられないときている。つくづくぼくとはかけ離れた、よくデキたやつだと思う。

 

さて、ふと見れば雨が止んでいる。止みそうもないとはいったいなんだったのか。適当なこと言いやがって。

こうやって長く文章を書いていると実に肩や背中のあたりに疲労が溜まってくるので、ここらへんはきちんと鍛えてやらないといけないのだなと思う。腕立て伏せだな…腕立て伏せかぁ…でも膝突いてやらないと支えきれないんだよね。女子か。

もうすぐ5時になるので、そうだなぁ、やはり1時間ほど走って来たほうがいいかな。眠いけれど。辛かったらウォーキングに切り替えればいい。ダラダラ歩いてもいい。とりあえず体を動かそう。

どのくらい意味があるかはわからないけど、とりあえずね。

5023文字

*1:たぶん新潟県高等学校文化連盟の略